「芹澤鴨は行方出身にあらず」と言えない事実


行方新撰組まつり
毎年行われる行方新撰組祭りと芹澤鴨・平間重助の法要(法眼寺にて)

芹澤鴨に関する新説の登場



 近年、芹澤鴨に関して、新説が出回っている。それは「芹澤鴨分家出身説」と呼ばれているものだ。
 芹澤鴨は、通説によれば「行方市芹沢村、芹澤本家の三男」とされてきた。これが近年の新史料発見により、否定されたという。
 この研究は、地元郷土史家の箱根紀千也氏と、その協力者浦出卓郎氏によって発表される。共に京都の霊山歴史館紀要に論文を書く研究者だ。論文は、『常総の歴史 第四六号〜四八号(崙書房)』に掲載され、箱根氏が集大成と言う論文が、霊山歴史館紀要第二二号に掲載された。
 だが、ここで問題が起きる。彼らは、この論文発表以降、凄まじい勢いで宣伝を開始したのだ。インターネット上において、新聞記事を装う投稿サイトに書き込みを行い、ウィキペディアの芹澤鴨に関する項目も書き換えられた。一部では、あさくら氏を誹謗中傷する行為も行われている。(http://chishikizatsugaku.com/?p=1081)
 しかし、この研究は地元の人々や新選組研究家の支持を得てない。研究内容に問題があるからだ。そこで今回は、この問題に関して検証してみたい。

通説「芹澤鴨本家出身説」



 この通説は、昭和期に釣洋一氏が広め、平成期にあさくらゆう氏が完成させたと箱根氏は言う。
 『新選組を創った男(あさくらゆう著・玉造町観光協会発行)』によれば、芹澤鴨の生年ははっきりしないとある。この時点で、芹澤鴨の正確な年齢は不明だ。だから年齢に関することは、すべて憶測となるのでご注意願いたい。
 鴨は、水戸藩上席ク士芹澤貞幹(本家)の三男に生まれたとされる。ところが、史料『芹澤家譜』には、鴨に該当する三男の記載が無い。貞幹が作成した『芹澤家譜写』の中で、貞幹の子と記載があるのは、長女と長男興幹、次男成幹の三人だけらしい。
 しかし、貞幹の孫にあたる芹澤美幹(潔)が作った『芹澤家譜』には、貞幹が「三男一女ヲ生」と書かれており、三男の存在が示唆されている。ところが、肝心の三男に関する記載が無く、家系として現れてくるのは長女と長男興幹と次男成幹だけだ。
 箱根氏は、「三男一女」は誤記だったとする。本当に誤記ならば、通説は通用しない。だが、誤記だという確証を得るためには、裏付けとなる史料か傍証が必要だ。
 現段階では、箱根氏からの問題提起が行われただけで、今後の研究の進展を待つほか無い。つまり、通説はまだ崩れていない。
 さて家譜で名前が無い三男は、通説の中で「玄太(幼名)」とされた。なぜ名前が判明したのかと言えば、法眼寺にある芹澤本家の過去帳に、ある女性の戒名が記載されており、その下に「芹澤玄太妻」とあったからだ。名前の解らなかった三男は、この「玄太」だと通説では語られる。
 ここでも、箱根氏は「三男の名前が、玄太だと証明できていない」と主張した。名前不明の三男が「玄太」とするのは、歴史研究家の憶測でしかないからだ。
 箱根氏は、芹澤鴨本家出身説否定の立場から、そもそも「玄太」は、研究家あさくらゆう氏の古文書誤読であり、正しくは「兵太」であると主張する。
 もし、箱根氏の言う通りに「兵太」が正しければ、元治元年九月二十二日〜十二月まで、兵太は芹澤兵部(成幹・次男)と共に、諸生党の治療に当たっていた記録『御追討ニ付戦士疵療治ひかえ』があるから、文久三年九月頃に暗殺された芹沢鴨とは別人になる。
 また箱根氏は、石橋彦兵衛の慶応四年四月の願書に、「本家芹澤兵太殿宅え罷出候処」とあることから、慶応四年の芹澤本家当主が「兵太」だと主張した。本当に、貞幹三男とされた「玄太」が、「兵太」だったとすれば、箱根氏が言う通り、完全に芹澤鴨と兵太は別人ということになる。
 ところが、私があさくらゆう氏から見せて頂いた『芹澤潔戸籍』によれば、芹澤潔(美幹・成幹の長男)が本家を継いだ日に関し、「慶応三年七月二十日相続」との記載がある。だから、慶応四年の芹澤本家当主は芹澤潔(美幹)だ。
 しかも前戸主は「亡父芹澤兵部」とあるから、家督を兵部の後に潔(美幹)が継いだことは間違いない。従って、箱根氏が主張する「兄の兵部の後に。弟の兵太が当主になった」とする説は、完全に否定される。
 これは箱根氏が『芹澤潔戸籍』を見ていないからこそ起きた間違いだろう。
 そして慶応四年に兵太が当主であったことは、箱根氏が示した史料『石橋彦兵衛の願書』によって明らかだから、「兵太」と「芹澤潔(美幹)」は同一人物でなくてはならない。  つまり、「兵太」は芹澤潔の幼名と私は考える。当然、貞幹三男の玄太と兵部(成幹)長男の兵太(潔・美幹)は別人だ。
 「玄太」は「兵太」の読み間違いとする箱根氏が、読み間違っているのではないか?。そして『御追討ニ付戦士疵療治ひかえ』で、箱根氏が言う「兵部(成幹・貞幹次男)と兵太(貞幹三男)が兄弟で治療に当たった」とする説も「兵部(成幹)と兵太(成幹長男)の親子」で、治療に当たったことになる。このように理解すれば、『芹澤家譜』とも符合し無理が無い。  家督は、長男が継ぐのが順当だ。もし、箱根氏の言う通り、兵部(成幹)と潔(美幹)の間に、当主として兵太が入るとすれば、家督者である貞幹次男の兵部(成幹)の死後、兵部の長男である潔がいるにも関わらず、三男の弟兵太が継ぐことになってしまう。しかも、明治時代の当主は潔(美幹)なのだから、一旦三男の弟の血筋に移った家督を、また兄兵部(成幹)の血筋に戻すという不自然さが出てくる。
 以上の考察から、箱根氏の芹澤鴨本家出身否定論は、成立していない。
 さて、箱根氏は論文の中で、たびたび芹澤鴨の年齢に関する考察を行っており、その方面からも通説の批判を行っている。
 史料『昭和大礼贈位書類第二冊』の中から「故 長谷川庄七(内務省二)」に関する記述が発見されたからだ。その記述によれば「長谷川庄七ハ常陸國行方郡芹沢村芹澤外記ノ四男(後略)」とあり、生年月日も「文政九年」と記されている。
 芹澤本家で外記の名を使用したのは、芹澤貞幹とその父清幹だ。
 箱根氏は、ここで登場する外記を貞幹と考え、通説の「芹澤鴨は、芹沢村芹澤家本家貞幹三男で、文政九年生まれの幼名玄太」は、当てはまらないと主張する。
 その後、インターネット上で、何者かは解らないが歴史研究家を名乗る人物が、「文政期に芹沢外記を名乗ったのは貞幹とその父清幹の二人がいるわけだが、清幹は庄七が生まれたとされる年代に御年六〇代の高齢であり、妻の年齢も考慮に入れると、父親とはなりえない。また、清幹の四男は又蔵伴勝といい、新治郡宍倉村(現かすみがうら市宍倉)の浜野茂衛門家に養子入していることが判明している。長谷川庄七の父親は貞幹という事は確定した。」という記事を提示している。(http://rensai.jp/147379)
 これが事実だとすれば、四男庄七が文政九年生まれなので、文政九年生まれという芹澤鴨の通説は崩れ、文政八年以前の生まれにしなければならない。
 箱根氏の本家出身否定論では、兵太と庄七が貞幹の子とすることが、本家出身説を完全否定する絶対条件となっている。
 つまり、兵太に該当するのは、名が不明の三男しかありえず、四男は庄七で確定している。兵太は慶応四年まで生存しているから、五男以降が鴨の候補だ。
 ところが、五男の存在など、どの史料も示していない。したがって貞幹の子は、五男以降はいない。そうなると、芹沢鴨は本家出身では無いということになる。
 しかし、これを事実とするためには、裏付けとなる史料か、傍証が必要になるだろう。史料には「外記」としかなく、芹澤家の誰を指すのか判断は難しい。また、文政期に二人も同じ「外記」を名乗ることは許されない。つまり、「文政期に芹沢外記を名乗ったのは貞幹とその父清幹の二人がいる」はずはないのだ。
 そして、そもそも庄七の母親が誰か解っていない。腹違いの子と考えれば、三男と四男が同じ年に生まれた可能性は否定できなくなる。つまり、「庄七の父親は貞幹と確定した」などと、豪語できるほどの条件が揃っていない。第一、芹沢鴨の年齢が正確に解っていないのだから。
 したがって、庄七が貞幹四男と確定することはできないと私は考える。これにより、箱根氏が主張する芹澤鴨本家出身否定論の核心部分が、すべて崩れてしまった。そして、通説は何一つ崩れてはいない。
 箱根氏の言う「兵太」は、正確には潔(美幹)だから、貞幹三男の名は通説のまま「玄太」で良いだろう。玄太は、元服すると現在の北茨城市松井村の神官下村祐斎の婿養子となり、名を下村継次に改めた。
 箱根氏は、この養子の件でも「芹澤本家から下村家に養子に入った証拠が無い」と主張する。とにかく、通説徹底否定だ。  史料『芹澤家譜』には、貞幹三男に関する記載がないため、当然、養子に出されたとも書かれていない。また下村家に関しても、行方不明になった人物の名が不明のままで伝えられている。  この行方不明者の名前が、継次だと判明したのは、研究家あさくらゆう氏の調査の結果だ。箱根氏は、あさくら氏の主張を「憶測の産物」と考え、玄太が養子に入ったとするには証拠不十分と結論。養子否定説を主張するに至ったと考えられる。
 確かに、芹澤本家三男は長い間、謎の人物であったし、下村家でも継次の名は不明だった。その意味では、両家をつなぐ確たる史料は無いし、下村祐斎と継次の関係も史料的には不明確と言えるだろう。
 だが、史料『鈴木大日記.文久元年四月七日の項』に、「一、下村継次ナル者、潮来松本や遊女色橋と云者を連、村芹沢外記宅ニ潜居いたし候を監府、召捕」とあり、これが、芹沢本家と下村家をつなぐ有力な史料となる。
 なぜなら、何の縁も無い指名手配者を、芹沢本家が匿う理由が無いからだ。匿ったということは、芹沢本家と下村継次には強いつながりがあったことを示している。下村家で名前不明の行方不明者が、下村継次だとすれば、下村家と芹沢本家に明確に関係していたことの証明となろう。
 箱根氏は、このことに関しても下村祐斎と下村継次をつなぐ証拠が無いとしたが、つい先日、史料『明善先生日記』の中に、文久元年に捕縛された下村継次の名が見つかった。それによると「手綱領松井村神職次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」との記載があるという。神職次郎八とは、神官下村祐斎のことだ。
 この発見によって下村家で名前が判らなかった人物は、ほぼ下村継次と確定できた。
 この下村継次が、芹沢本家宅で捕縛されたのである。
 これにより、芹沢本家と下村家が強く結び付いていたことが証明できよう。玄太養子説は補強された。逆に言えば、箱根氏の養子否定説は説得力を失った訳である。
 以上、説明してきた通り、箱根氏の言う「芹沢鴨本家出身説否定論」は、ほとんど何も成立しない。

芹澤鴨生家1
芹澤鴨生家跡

箱根氏による「芹澤鴨分家説」



 では、箱根氏が支持する「芹沢鴨分家説」は、通説に取って代われるほどの説なのか。
 この説は、島田魁が書いた『英名録』の末尾、芹澤鴨の横に「又左衛門子」と小さなメモがあったことから、芹澤分家筋の芹澤又衛門以幹の子が、芹澤鴨ではないのかという説から始まる。
 箱根氏は、芹沢鴨の諱「光幹」と同じ諱を、以幹の二男又衛門義幹も初名として使っていたことから、義幹の弟もまた使っていた可能性があるとした。この義幹の弟こそ芹澤鴨だというのが、箱根氏の主張だ。
 さらに箱根氏は、子母沢寛著『新選組始末記』や『新選組異聞』から、「水戸様の家来だという兄が尋ねてきた」という記述を重視する。当時、義幹が在京していたから、これに符合するというのだ。
 これに関して、まず私は子母沢寛の著作は、創作も多いので信頼性に欠ける点を指摘する。それに、分家筋の者が芹澤本家三男だった芹沢鴨の葬儀に参列しても、不自然では無だろう。それを八木為三郎が「兄と勘違いした」可能性は否定できない。
 そして、義幹の初名諱が光幹ならば、弟が同じ諱を使うことは、まず考えられない。
 同じ諱では、名前から兄か弟か判断できず、混乱が生じるからだ。たとえ、兄が改名し、以前の名を弟に与えたとしても、やはり混乱は生じる。それを避けるため、同じ諱にすることは常識的に考えられない。
 島田魁の『英名録』はどうだろう。これに関しては一考の価値はある。だが、島田がどの程度芹澤鴨の事を知っていただろうか。島田の勘違いの可能性が残されている以上、はやり『英名録』だけでは説得力が無い。島田のメモが正しいことを証明する史料か傍証が必要だ。
 また、箱根氏は近藤勇書簡に「水府脱藩士下村嗣司改芹沢鴨」とあることから、分家の芹澤又衛門こそ正式な水戸藩士で、水府脱藩士に文字通りに適合すると言う。
 しかし、芹澤本家も上席ク士であり、士分として扱われている。水府脱藩士と言われても不自然では無いのだ。
 そして、近藤勇は、同じ局長として芹澤鴨と深く交流していた。その点で、この近藤勇書簡の信憑性は高く、その書簡に示された「下村嗣司」は、前述してきた神官下村祐斎の子、下村継次と考えるのが妥当だ。
 詰まるところ、「芹澤鴨分家説」は、島田魁の『英名録』だけが、唯一の根拠だ。
 もちろん、箱根氏が言うように芹沢鴨が本家出身ではないのであれば、残っている説は分家出身説しかなく、この説が通説に取ってかわることになる。だからこそ、箱根氏は、通説の否定にこだわったのだろう。
 しかし、本家出身説は、まったく崩れていない。したがって、箱根氏の分家説は、通説よりも信憑性の低い仮説のままだ。
 ただし、現段階では本家出身説もまた「説」の段階であり、裏付けや傍証を重ねて、信憑性の向上を目指す必要がある。
 ただ、言えることは、依然として「本家出身説」が通説の位置にいるということだ。
 以上で検証を終わりたいと思う。今後は、通説を否定する事で自説を押し通そうとするのではなく、事実を明らかにする研究に重点を置いて貰いたいと願う。
 なお、この検証に関して、史料の提供、多くのご教授を賜った研究家あさくらゆう氏に感謝したい。

(幕末ヤ撃団 梅原義明 2015年12月30日コミケ89で公開配布)

芹澤鴨生家2
芹澤鴨生家跡に残る家屋(普段は非公開です)
芹澤鴨生家3
家屋入り口に掲げられている表札

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 前述の4頁は、二〇一五年一二月に開催されたコミックマーケット89において無料配布したペーパーの全文だ。
 一枚の印刷物とするために、文字数を制限した都合上、説明不足の箇所もある。
 この場を借りて、そうした部分の補足を行いたい。

定説と通説の違いについて



 箱根氏の論文を拝見し、まず最初に思ったことは、箱根氏が「通説と定説の違いが解っていないのではないか」という疑念だ。
 「定説」とは、証明ができており疑いようのない説、定まった説のことで、実質的に「史実」として扱われる。
 これに対し「通説」は、仮説の中で、もっとも信憑性と信頼性が高く、それ故に多くの支持者を獲得している説だ。定説との違いは、証明ができていないために、いくつかの「疑問」が残されていること。それでも、多くの研究者から検討され、支持されるに至った点で、他の仮説と比べて信憑性と信頼性に秀でている。
 今回の「芹沢鴨本家出身説」も「通説」であり、「定説」ではない。
 だから、箱根氏の言う「疑問が多いので、通説として通用しない」という主張自体がおかしい。定説ならいざ知らず、通説に疑問があるのは当たり前だからだ。

箱根紀千也氏の研究手法に関して



 箱根氏の研究論文を読んだ時に思ったことは、「史料や文献の信憑性や信頼性を考慮していない」という点だ。
 史料には一次史料と二次史料があり、それぞれ信憑性が違う。史料の他に文献資料があり、それらを使って歴史を研究していくことになるが、箱根氏の場合、これらの史料や資料の信憑性や信頼性を考慮することなく使用している感じがする。つまり、史料の取り扱いに問題があるのだ。
 特に、研究家あさくらゆう氏や釣洋一氏、菊池明氏の著作文献を「史料」のように扱ってしまっており、その結果として先行研究者に対しての疑念や矛盾が生じ、先行研究者に疑問を投げかけて返答を貰わなければ、研究が進まないという状況に陥っているように私には感じる。これらは、あくまでも参考文献であって史料では無い。
 研究は史料によって進められるべきであり、先行研究者による文献資料は、あくまでも参考として使用すべきと私は思う。そうすれば、先行研究者の研究を参考としながら、自らの研究を先行研究者の意向や動向など気にすることなく進められる。先行研究者の考えを改めさせなければ、自分の研究が前に進まないなどという意味不明な研究には陥らないはずだ。
 前述した史料や資料の扱いのほか、あさくらゆう氏は『茨城史林第39号・水戸藩芹澤家について』の論文中で、箱根氏について「フィールドワークの欠如」を指摘している。これは、文献資料を史料として用いているという疑念とも直結する問題で、つまり「孫引き」の疑念を懐かせる。
 本来、文献に掲載されている史料は、研究者自身が、自分の目で原本を確認した上で使用すべきだ。「孫引き」は間違いの元であり、著しく論の信憑性や信頼性の劣化を招く。私が箱根氏の論に「孫引き多用」の疑念をぬぐい去れないのは、先行研究者の著書を史料と同様に扱っていることから、現地調査や先行研究者の文献内で使用された史料の原本確認を怠っている可能性があるからだ。これでは、とても良質な研究とは言えまい。これらの問題が解決できれば、芹沢鴨研究のさらなる進展が望めよう。大いに期待しているところである。



(文責:幕末ヤ撃団 梅原義明)

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