二本松紀行

木村銃太郎と少年達

二本松藩霞ヶ城前にある二本松少年隊の像

 2004年9月11〜12日にかけて、O氏とK氏、そして私の三人で戊辰戦争激戦地の一つ二本松藩を見て回ってきた。これはその時の簡単なレポートである。


 真っ先に向かった場所はココ「大壇口古戦場」である。白虎隊と共に悲劇の象徴とされる二本松少年隊が防備し、激戦を演じた場でもある。大壇口は防備に適した岡となっていたという。ココを抜かれると二本松城まで平坦な地形が続いてしまう為、二本松藩としては最終防衛線として死守したい場所だ。しかし、奥羽越列藩同盟の命令から二本松藩の主力部隊は白河戦線にあり、二本松城下にはいなかった。新政府軍の迅速な進撃の前に、二本松藩は主力戦闘部隊を欠いた状態で迎撃しなければならないという事態に陥り、留守部隊は元より老兵農兵、そして13歳から17歳から編制された少年達など総動員して防戦に勤めるしかなかった。


 大壇口の最上部がココ。残念ながら道路や線路、工場などの為に四方を削られ、当時の面影を残していない。戊辰戦争当時は竹や林で生い茂った岡だった様だ。木村銃太郎に率いられた少年達が戦い、見事な射撃を見せ、突貫する薩摩兵が慌てて避難するという一幕もあった。少年達はエンフィールドスナイドル銃(薩長が装備していた後装ライフル銃と同じ)という最新式銃を装備し、隊長の木村銃太郎もまた江戸で洋式戦術を習得していた為、精度の高い砲撃戦を行えた。これには薩摩兵側が驚嘆し、奥羽戦争一の激戦と後に語っている。


 大壇口古戦場を後にし、一路二本松本城霞ヶ城へ向かった。奇しくも少年隊士14歳の成田才次郎と同じコースで城に向かったと思われる。才次郎もまた大壇口で重傷を負い、城に向かって撤退をしている。才次郎が城にたどり着いた頃には城も新政府軍の手に落ちていた。成田少年は、敵に一矢報いんと敵兵の姿を探して城に戻ってきたのだ。松坂門を過ぎた所で白井小四郎率いる長州部隊に出会う。長州兵達は手負いの子供に油断し無警戒で通り過ぎようとしたが、成田少年は白井に斬りかかって討ち取っている。白井は死の間際に「この様な少年に討たれるのは本望だ。重傷の様だからいたわってやれ。」と語ったという。だが成田少年もまた力尽きて息絶えた。成田少年の父は、息子の墓参りの度に白井小四郎の墓にも香華を手向けたと言われている。
 この成田少年と白井小四郎の戦死の場から見えるのが、二本松霞ヶ城である。私もまた大壇口から松坂門跡を過ぎ、絶壁のような巨大な石垣を見た時は心底驚いた。二本松藩の城は小城で防御力がないなどとどこかの本で読んだ事があるが、見ると聞くとで大違いである。

 この写真は石垣の全体が見えるように、見上げて写した一枚だが迫力が無くなってしまった。こう二次元で見ると小さく見えるが、実際は凄く高い。石垣は目地がほとんどなく大小不揃いの石を見事に積み上げてある。手を掛けようにも隙間には小石を奇麗に詰めてあり手を掛ける所など無い。

 三の丸へ通じる箕輪門。そうココは本丸ではないのである!。あの巨大な石垣は単なる三の丸の防御壁に過ぎないのだ!。この門を破ろうと門前に立てば、門の上の櫓、側面と背後の城壁三方向からの猛射を浴びる事になる。まさにキルゾーンである。ちなみに勇猛な薩摩藩兵はこの門をよじ登り一番乗りで突入したという。しかし…。

 箕輪門を突破してもそこは箕輪門郭と呼ばれる場所で、三の丸に行くにはこのもう一つの門を突破しなくてはならない。写真では石垣しかないが、当時は立派な門と櫓があったと思われ枡形を形成していた。ここに入った者は、箕輪門の櫓と三の丸二方向からの射撃と箕輪門郭にいた城兵の集中攻撃を受ける事になる。薩摩藩兵も箕輪門を突破した所で二つ目の門にぶち当たり大慌てしている。

 箕輪門郭から箕輪門を見る。あそこからも射撃してくるだろう。この距離なら火縄銃でも良く当たる距離である。この箕輪門郭は二重の門で守られており、二つの門を突破した所でようやく三の丸にたどり着く。しかし、この二本松霞ヶ城は平山城で、三の丸から二の丸、そして本丸ヘは登山を思わせる様な急勾配と、多くの曲輪に十重二十重に守られている。本丸は山頂にあり、ここからは遠くて見えない程である。小城ではない…数千で守るに適した巨大な城郭であり、逆に数百で守るのは少なすぎると感じるほどだ。

 本丸に向かう登山途中で見かけた水路。石垣で水路が造られており、城内は縦横に水路が走っている。二の丸には「絶対枯れない井戸」もあり、水が豊富である事を物語っている。籠城戦になった場合、この水が重要な意味を持つ事は説明する必要もないであろう。

 本丸への経路は複雑である。てなわけで、実は道に迷った…。仕方が無く搦手門から本丸を目指すことにした。この搦手門も幕末当時には門と櫓があったと思われ鉄壁の防御力を誇っていた。こちら側からも新政府軍が攻め掛かり、搦め手と大手の二方向から攻城戦を行った。

 搦手門から急勾配を登り、ようやくたどり着いた本丸である。本丸も巨大な石垣の塊で、よじ登る事はほとんど無理に思える。

 同じく本丸石垣の写真。見事な穴太積の石垣。やはり大小の石を積み、隙間には小さなな石をキッチリ詰めてある。手の掛ける所などまったく無い。

 資料様に作られた石垣。使用不能になった石垣の石を使っているそうだ。表の大きな石垣の裏には小さな石が詰められ、石垣の内部構造が良くわかる。

 この写真も石垣の構造を説明する為の石垣。表から見るとこういう感じになっている。

 本丸に登り、上の石垣から下の二の丸を見下ろす。どれほどの急勾配かお解りだろうか。絶壁の上に高い。絶妙の勾配で二の丸から登ってくる敵は丸見えとなり、死角はまったくない。つまり、攻め掛かる者は登り始めたら最後身を隠す場所が無いために攻め続けるしかないのだ。しかも鉄砲の猛射撃を受け続ける事になる。守っている側は、鉄砲はもちろん弓や投石で登っていくる敵を容易に攻撃できる。三百六十度全周囲がこんな感じで難攻不落の風格である。

 隅角部から本丸を見渡す。本丸へ通じる通路は虎口となっており、ここに立ち入った敵は三方向から攻撃を受ける事になる。さらに奥に進み、本丸に登る階段付近では四面全周から攻撃を受ける事になる。現在は石垣しかないが、本来であれば壁と門と櫓で守られた鉄壁のキルゾーンとなっていただろう。恐るべし…。

 大手門側の曲輪から本丸を望む。二本松霞ヶ城は鉄壁とも思える石の要塞である。小城などではなく堂々たる大城と言える。二本松藩は、主力部隊の無い状態で少年兵や老兵、農兵だけで戦った。それでも新政府軍の記録に東北戦争最大の激戦だったと記録されたのも頷ける。だが、多勢に無勢ではどうしようもなく奥羽同盟の援軍もついに来ず、戦闘は早朝から始められ、延々5〜6時間もの死闘を展開した後、筆頭家老丹羽一学が城に火を放ち自刃し落城する。

 さてさて、こんな感じて二本松の古戦場をウロウロして見てまわって第一日目が終わった。翌日は、塩原の古戦場を見て廻って帰ってきた。塩原のレポートはまた後日アップしたいと思う。今回の感想は「自分の目で確かめないと解らない事も多い」という事だ。ここにアップした写真の他にも、二本松城には多くの防御施設跡があり、今回紹介したのも極一部に過ぎない。なによりも自分の目で見てまわると面白い発見があるかもしれないので、一度行ってみる事をお勧めする。

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