甲陽鎮撫隊・甲州勝沼の戦い


甲州勝沼にある近藤勇像

鳥羽伏見の敗戦


 徳川旧幕府軍の敗北を決定的にした戦いこそ鳥羽伏見の戦いであったろう。この戦いで薩長の使用した洋銃の前に、新撰組隊士たちは次々に倒れ、土方歳三は刀の時代の終焉を悟った。同時に朝廷は薩長を中心とした明治政府側に取り込まれる。明治政府は文字通りの官軍となった。尊王思想が蔓延していた幕末当時の情勢から、官軍の名の効果は絶大である。この時点をもって戊辰戦争の勝敗は決していたといっていい。最近出版された本の中に「鳥羽伏見以降に行われた戦い、会津戦争や北越戦争、函館戦争。これらすべての戦いは明治政府にとっては勝った後の残敵掃討戦である。」と過激な文章があったが、ある意味においては的確な表現かもしれない。旧幕軍が京都朝廷奪回を諦め、大阪から撤退した時点で、明治政府の官軍の地位は不動のものとなった。江戸に立ち返った旧幕府軍は、明治政府の完全打倒は独力では不可能である事を悟り、戦いの目的は「いかに有利な条件で恭順(降伏)するか」に変化する。そして、徳川家最後の戦いが始まる事となる。

奇将!勝海舟


 かつて第二次長州征伐の時、長州藩は対幕戦争に備えて徹底的な藩政改造に取り組み生まれ変わった事がある。政治行政システムが簡素化し、門閥を廃して能力主義に切り替え、機敏な動きが取れるようになったのだ。そして今度は朝敵となった徳川家がそれをやる番であった。大政奉還した事で、徳川家は一大名となっている。これまでは幕府として譜代藩の藩主たちが老中となり、幕政を担ってきた。これが幕府政治を狂わせた悪い一面にもなってる。老中には任期があるため、任期中に問題を起こさなければ良い。つまり問題の棚上げや譜代藩の利権といったものが幕政に入り込んでいた。現在の自民党に似ている状態だといっていい。みんな自民党なのに自民党○○派とか××派があるといった状態で、意思決定は政治調整能力の勝負となり、動きが鈍いという弊害があったのである。徳川家が一大名になったことから、徳川家を譜代とはいえ他藩の藩主が運営する体制はおかしいという事で、徳川家運営システムの中から譜代大名が取り除かれる事となる。純粋な徳川家家臣による体制に切り替わったわけだ。
 はっきり言おう!。この瞬間に徳川家は生まれ変わってしまった。徳川家には優秀な人材が数多い。そして、実のところ身分すらも越えて人材を登用する体制もあった。長州軍に勝利をもたらした軍神大村益次郎など幕府が見つけ出し幕臣として登用していたのだ。長州の方が後から幕府から引き抜いている。福沢諭吉や大鳥圭介、土佐漁師出身のジョン万次郎など他藩の者や医者、漁師まで必要とあれば幕臣待遇で取り立てている。ところが、これら優秀な人材の意見が家柄や身分だけの凡庸な旗本や老中などの意見にかき消されていた。優秀な人材を活用しきれない政治行政システムから、能力主義の新体制に切り替わった事で、彼らの能力が最大限に引き出せるようになったのである。新しく発足した徳川家の体制は、有利な条件で恭順する事を最高目的とした政権であった。その事実上の指導者となったのが坂本竜馬の師匠にあたる勝海舟である。勝は、明治政府の最高指揮官である薩摩の西郷隆盛から厚い信頼を寄せられており、征長戦の時には、長州との和平交渉を担当して見事に纏め上げた実績がある。第十五代将軍徳川慶喜と勝の仲は決して良好なものではない。慶喜は水戸徳川家に生まれ、将軍職を継ぐべく御三卿一橋家に養子に入った血統書付きのサラブレッドで、門閥家柄最高の立場にある。対して勝はこの門閥や家柄が大嫌いで、幕府や日本を滅ぼす元凶と忌み嫌う。多分に自分の家柄が低い事に対する僻みが入っている。慶喜は身分家柄にはこだわらなかったが、やはり血統には自信があっただろう。この二人は互いを嫌う要素を持ち合わせている。その一方で、互いの力量も認め合っていた。両者共に先見性においてずば抜けた能力を持っている。慶喜は、ここぞという所で勝を活用し続け、勝もまた与えられた要求を全し、最後まで慶喜を見捨てる事は無かった。
 勝海舟は徳川家を救う為に、自らは陸軍総裁職になった。まずこれが人事上の妙技と言える。ご存知の通り、勝は海軍畑を歩き続けた人物だ。海軍総裁にならず、なぜ陸軍なのか?。徳川家の恭順が成功するか否かは、徳川陸戦部隊の動きに掛かっていたからだろう。徳川家正規軍はいまだに健在であり、難攻不落の江戸城に篭れば負けないという自信は誰もが持っていた。徹底抗戦の主戦論だ。門閥出の代表小栗上野守が強く主張した。いや、小栗だけではない。勝自身も海軍を活用して新政府軍を撃破する作戦を考え出している。確かに負けはしない。だが、京都を奪回しない限り、賊軍のレッテルから逃れる事ができず、ジリ貧となっていつかは負けてしまう。それどころか、諸外国に漬け込まれる時間を与え、植民地にされる恐れすらある。「同じ日本人同士が殺しあってはいけない。諸外国こそ真の敵だ。」というのが勝の持論である。長期戦を行うという選択は出来ない。しかし、そのまま恭順し、徳川家を滅亡させては幕臣としての責務を果たせなくなる。ともかく、徳川家の陸戦部隊が勝手に暴発されては元も子も無くなってしまう。彼らを抑える為にも勝が陸軍の総括者となったのだろう。そして誰もが「いかに恭順するのか」という事を悩み苦しんでいた時、勝はもっと先を見ていた。「どうやって徳川家の家名を存続させるか」である。恭順できても徳川家が取り潰されては意味が無い。これより勝は、ありとあらゆる策を打つが、すべては徳川家存続の為である。現在多くの人が、江戸城無血開城こそが勝の最終目標だったと思っている。それは違うと断言しよう。江戸城無血開城など勝にとっては策の一つに過ぎない。真の狙いは開城の後に出てくる「徳川家処分の内容を有利にする事」だ。そしてその為には徳川家陸戦部隊の戦力がどうしても必要だったのだ。

甲陽鎮撫隊


 江戸城無血開城に向けて、勝は暴発しそうな主戦派の部隊をことごとく江戸から追い出したと言われる。事実、古屋佐久左衛門の衝鉾隊や近藤勇が率いた甲陽鎮撫隊を軍用金や武器を持たせて江戸から出している。彼らは勝にとって不要な駒だったのだろうか?。少なくとも私はそう考えていない。近藤勇には、若年寄席という破格の身分を与え、甲州一国をくれてやると約束したというが、幕府ではなくなり賊軍とされ存亡の危機に立つ徳川家に、そんな力が無い事ぐらい近藤勇なら知っている。勝に騙されたとは到底思えない。現在、新撰組を甲州へ下らせたのは会計総裁職にある大久保一翁と判明している。勝が直接近藤に命じた事ではない。こうなると甲州一国を近藤にくれてやると勝が近藤に言ったとする説自体の信憑性が非常に怪しげである。勝が無関係という事ではない。大久保一翁は勝を幕府内で持ち上げ出世の糸口を作った人物で、勝とは志を同じくする者だからだ。少なくとも大久保は陸軍を管理する勝と相談の上で命令を出しているはずである。ともかく、近藤勇は甲州鎮撫の任務を受け、新撰組残党を集めて甲陽鎮撫隊を結成した。兵が少なく兵士募集も行ったが集まらず、幕府歩兵などにも声を掛けても無視されたという。旗本などは近藤の出自などを嫌い、近藤の要請を蹴っている。なんとか松本良順の手引きで穢多頭弾左衛門から被差別民である穢多非人など二百人を集めてもらい、これで部隊を作った。彼らは幕藩体制の身分制度下では最低の身分であり、人として扱って貰えないほど身分の不条理を感じていた人々だ。もちろん徳川家に恩義など無い。そんな彼らが命がけの戦争に参加するには、それなりの理由があったはずである。このあたりの事はよく解っていないが、金か身分のどちらかであったろう。松本良順の記録『蘭畴自伝』によれば、近藤と共に弾左衛門の元を訪れて「穢多解放」を約束したという。甲州に向かう途中で近藤勇が、自らは大名となり、配下の者たちは皆自分の家臣として身分と土地を与えると言ったという。これに不服を唱えた永倉新八の回顧談である。もちろん、近藤にもあわよくばという気持ちがまったく無かった訳ではないだろう。しかし、私にはこの宣言が永倉など昔からの同志に向けられたものではなく、俄かに近藤の配下となった穢多非人兵たちに向けられたものと思えてならない。徳川家になんの恩義も感じていない彼らに忠義を説いても通じまい。忠義心が無いのだから、それこそ武士道精神などなんの意味も無い。さらに尊王佐幕など思想による統制も出来ない。なぜなら彼らには思想を持つ生活的余裕も知識も無いのだから。近藤勇に対してすら彼らは忠誠心を持ってなどいない。戦いが近づくにつれ、脱走兵が相次いで出ている。彼らを戦場で戦わせる為には、それ相応の甘味を与えてやらねばならなかったはずである。金を与えては軍資金が欠乏する。一番簡単な方法は、勝ったあかつきには身分を与えて武士にしてやるという空約束だ。穢多身分から解放するとは、つまり武士に身分を引き上げてやるという事ではなかったか?。故郷多摩を通過する際には、宴会が行われたという。近藤は招待客扱いだっただろうから、宴会費用は多摩の人々がもったであろう。もちろん兵たちもご相伴にあずかったはず。近藤に付いていけば、ご馳走が貰える。いずれは武士にもなれると思い込ませる事が出来れば、甲陽鎮撫隊の士気も高まり脱走兵も減る。それほどまでに甲陽鎮撫隊の士気の低さは酷いものだった。京都新撰組時代とはまったく違っていた。京都の頃は、平隊士といっても、自らが志願して新撰組に入ってきた者ばかりだ。思想を語るだけの学力も知識も持っていた者ばかりだったのである。そんな彼らに対しては厳しい規則で縛る事もできた。ところが甲陽鎮撫隊は、志願ではなく無理に連れてきているという部分がある。規則で縛れば彼らは集団で脱走してしまうだろう。残念ながら、私の説を証明するための史料は存在しない。だからこの説が真実だとも言う事ができない。

甲州勝沼の戦い


 近藤勇の真の狙いがどこにあったのかは定かではない。だが、甲州は天領であり徳川家の領地だ。徳川家臣である自分が、その鎮撫を行う事になんの不思議もなかったろう。士気の低さもさる事ながら、兵力不足も頭痛の種であったようで、甲府城代佐藤駿河守に対して、新政府軍より先に甲府城にはいって義勇軍を募集すると交渉を行っている。また、横浜警備を行っていた幕兵二大隊、別名菜っ葉隊に応援要請しているものの、菜っ葉隊も旗本たちと同様近藤を無視している。兵力確保は日野で春日隊を指揮下に置いた程度に留まる。この春日隊とは、佐藤彦五郎が自ら結成率いた農兵隊で、二十二人の少人数である。
 一方、新政府軍もかなり早い段階から甲州を旧幕軍が占領するという噂をキャッチしており、板垣退助を総指揮者として東山道軍から分派派遣して甲府へ急行させている。その兵力は土佐六小隊で編成された半大隊二個と砲隊、因州八小隊で編成された一個大隊と砲四門。道案内の教導隊として高島藩から一小隊を当て、総兵力千五百人である。甲陽鎮撫隊約二百名と春日隊二十二名ではとても抵抗できない大兵力である。なお、この板垣支隊の中に丹波山国隊が入っている。この山国隊とは、遙か昔に天皇直轄領として存在しその恩恵を受けた丹波の人々で結成されていた。日野が徳川幕府恩顧の土地柄で、近藤達が徳川家の為に一命を捨てる覚悟で戦ったように、尊皇派の山国隊もまた天皇の為に一命を捨てる覚悟で義勇軍を結成し戊辰戦争へ参加していたのである。この山国隊も近藤勇も共に農民階級の者だった。これに私は歴史の皮肉を感じずにはいられない。幕府直轄領である甲府の人心を掌握する為に、板垣退助が本来の性「乾退助」から、「板垣退助」に名を改めている。戦国武田信玄家臣板垣家の末裔と言う事で人心を新政府よりにもっていこうとしたわけである。
 新政府軍の甲府城占領を聞いた近藤ら甲陽鎮撫隊がビックリしたのも後の祭りというものだろう。先に甲府城を取られては作戦計画そのものが成り立たない。三月五日、勝沼に入った甲陽鎮撫隊は柏尾に陣地を築き、持久策を取って防御に徹し援軍を待つ事にした。援軍を呼びに行く使者にたったのは土方歳三である。この人選は明らかに失敗だ。土方こそ鳥羽伏見の戦いで銃撃戦を経験した指揮官なのである。近藤勇は高台寺党の狙撃を受け、鳥羽伏見の時は療養中で戦いには不参加であった。つまり、近藤は近代銃撃戦は未経験なのだ。実戦経験者の土方が近藤を補佐すべきだった。さらに戦いが近いと知った兵士たちの大量脱走が相次ぎ、甲陽鎮撫隊の兵力は百二十一名にまで減少している。とてもではないが戦争が出来るような状態ではなかったろう。
 翌六日、新政府軍による攻撃が開始される。すでに近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が柏尾にある事を知っていた。土佐兵を主力とする板垣支隊である。相手が新撰組の近藤勇とあって闘志はいやが上にも燃え上がっていただろう。この頃、坂本龍馬と中岡慎太郎を殺したのは新撰組であると固く信じられていた。この為に、新撰組は土佐から悪鬼の如く恨まれていたのである。板垣支隊の前衛隊、土佐二隊と砲隊、因州三隊の約二百名が六日早朝前進を開始し、午前八時ごろ勝沼に到着、甲陽鎮撫隊を三方から包囲攻撃すべく部隊を三隊に分けている。右翼隊は土、因、高島各一小隊で、小笠原謙吉(片岡謙吉)が率い、中央隊は因二小隊と土佐砲隊とし谷守部(干城)が率いた。左翼隊は土州神谷兵衛の四番一隊が率いて甲陽鎮撫隊陣地の背後にある高地を占領すべく行動を起こしている。一番に襲いかかっていったのは中央隊である。指揮官は谷だ。谷は陸援隊の中岡慎太郎を尊敬し、死ぬまで殺したのは新撰組だと思いこんでいた。近藤勇を捕縛した時も、近藤は歴とした徳川家臣であり、武士として扱うべきだとし、殺さずに徳川家に返そうという薩摩藩の主張に大反対、拷問に掛けて坂本中岡殺しを自白させるべしと言い張った程、新撰組を嫌っていた。谷は甲陽鎮撫隊陣地への砲撃を開始する。甲陽鎮撫隊の方も応戦を始めたが、とにかく訓練不足で霰弾や榴弾の区別もつかない有様だった。まともな反撃ができる分けもなく、瞬く間に制圧されてしまう。右翼隊も移動中に幕兵からの砲撃を受けるも、すべて見当違いの場所に着弾しており、悠々と甲陽鎮撫隊の横腹を谷越しに砲撃を開始。そして、甲陽鎮撫隊を敗走させる決定打となったのは、左翼隊の高地占領であった。近藤らは、背後の高地が険しい事から、ここから敵が攻めてくる事はないと高を括り、これを天然の盾としていたのである。これは致命的な戦術ミスだ。孫子の兵法でも近代戦術でも高地を得たものが有利になる事は書かれている。この高地を放って陣地を作っていた甲陽鎮撫隊は重要なミスを犯していた。新政府左翼隊はこの高地を登り、敵兵が一人もいない事で喜々として占領、近藤らを背後から攻撃したのである。甲陽鎮撫隊の兵士たちは浮き足立ち手の着けられない混乱に陥った。叱咤する近藤勇だが、最初から戦争ができるような士気ではなかった。永倉新八の書き残した『浪士文久報国記事』によれば、彼は猟師を中心とした小部隊を率いていたようだが、劣勢に陥るや味方であるはずの鎮撫隊に向けて銃撃をはじめた。裏切りである。甲陽鎮撫隊は大壊乱を起こして敗北した。
 さて、近藤勇に新政府軍に対して抗戦意思があったかどうかが現在問題視されている。これまでは、主戦派である近藤が新政府と戦う為に甲陽鎮撫隊を結成し戦ったと信じられてきた。これに対し、新撰組研究家のあさくらゆう氏らが抗戦意思が無かったと主張している。先にも書いたが、先に仕掛けたのは新政府軍側である。甲陽鎮撫隊の士気の低さは目に余るものの、曲がりなりにも洋銃を装備した軍隊だから、治安維持程度ならできる。そして勝や大久保から指示された任務は権力の空白地となってしまった甲州の鎮撫(治安維持任務)である。これらから、近藤らが新政府軍と敵対する意思が無かったと解釈する事もできる。しかし、その一方で甲陽鎮撫隊は、江戸へ向かう新政府軍の進路を阻止する形で陣地を構築していた。新政府軍と敵対する気が無いのであれば、この行為は軽率だと言うしかない。新政府軍は江戸で旧幕軍と決戦するつもりであり、その旧幕軍が進撃路の途上に陣地を張って戦闘準備していれば当然その旧幕軍は戦う為に出てきたのだと思ってしまう。筋論で言えば、先に手を出した新政府軍が悪いという事になるかもしれない。しかし、近藤らの誤解を招きそうな行動にも問題があった事をここで指摘しておく。

勝沼柏尾古戦場(河から勝沼宿方向を見る)


勝沼柏尾古戦場 (新政府軍谷神兵衛隊側から古戦場を眺める)


近藤が本陣を置こうとし、断られた大善寺の本堂。結局、その門前に陣地を置いている。


勝沼柏尾古戦場の全景(新政府軍右翼隊から見た眺め。戦場全体が丸見えで、砲撃しやすかったろう。)

山を占領しなきゃ駄目だよ近藤さん〜!

戦場全景を見る。背後の山を新政府軍に取られ、背面から攻撃された鎮撫隊が敗北した。

(赤字は甲陽鎮撫隊を、青地は新政府軍の進撃路を示す。黄色は新政府軍の砲撃&射撃線)

写真撮影した場所は、新政府右翼隊の攻撃開始位置である。

鎮撫隊の守備隊は、山の裾野(甲州街道沿い)に細長く配置されているのが解る。

近藤勇は河の手前に陣取っており、背水の陣を敷いていたようだが、高所である山頂を占領し、

見張りを置くと行った事をしておらず、致命的な戦術ミスを犯している。

江戸城無血開城


 海舟と新政府の間で恭順に向けての交渉も急ピッチで進められている。三月九日に駿府で山岡鉄舟と西郷隆盛が会談し、慶喜の助命が決定されている。さらに、十三日と十四日の二日間にわたり勝と西郷のトップ会談が行われ、十五日の江戸城総攻撃が中止され、徳川家の恭順が成立した。勝と西郷の腹芸と言われている。両者の会談はたしかに腹芸であったろう。勝も西郷も味方への説得の方がはるかに大変だった。慶喜も朝敵として会津藩主同様に命を差し出せと要求されていた。それを西郷は一存で助けると約束したのである。彼はそのまま京都へ馳せ帰り、この事を新政府トップに認めさせるや、また江戸へ馳せ帰るという慌しい動きをしている。一方の勝も主戦派の幕臣を押さえに抑え続けた。さらに、慶喜自身も独自のルートで恭順を願い出ている。十四代将軍の妻にして孝明天皇の義妹和宮を通じ、新政府に恭順を願い出たのだ。こちらは甲陽鎮撫隊の為に失敗してしまった。和宮は上野寛永寺の法親王宮に託し、法親王宮は供に執当竜王院堯忍、執当覚王院義観を連れ駿府まで出向いて嘆願しようとする。丁度その時、甲州勝沼の第一報が西郷の元に届いてしまった。第一報だけに情報は不確実なもので甲陽鎮撫隊は三千という大軍勢と報告され、西郷も勝敗をひやひやとしながら見ていた。この不安と怒りが、寛永寺の僧達にぶつけられてしまったのである。こちらで恭順、甲州で抗戦。筋が通らないではないかと彼らは門前払いを喰らった。この後、面目を潰された寛永寺の僧たちが新政府軍を快く思わなくなり、彰義隊を受け入れ上野寛永寺は佐幕主戦派の一大拠点となるという事態に発展してしまう事となる。
 ともかく勝の方の交渉は成功し、四月十一日、江戸城は無血開城。新政府軍は江戸城へ入った。そして主戦派の旧幕歩兵の大量脱走が始まるのである。大鳥圭介の伝習歩兵が北関東日光に向けて脱走。恭順に不満な幕臣部隊を吸収しその数は三千。さらに幕府撤兵隊が千葉方面に脱走、その数千五百から二千名。榎本武揚らの幕府海軍は江戸湾に留まったまま軍艦引き渡しに応じず江戸の新政府軍を睨み付けている。さらに幕府遊撃隊二百七十五名が箱根近辺に存在し、恭順に納得したとは言え、新政府に従わない彰義隊三千が上野に集結していた。まだある。信州に古屋の衝報隊約三百五十人がおり、そして近藤勇率いる甲陽鎮撫隊の残党がいる。甲州の敗戦後、募兵を行って三百人前後に膨張していたという。開城の時には、近藤は捕縛されてしまっていたけれども。その総兵力は八千以上!だ。当初の目的通り新政府軍は江戸城を得た。ところが、そこにあるばずの武器弾薬は何もなかった。火縄銃が七百挺しかない。大量の金もすべてが旧幕脱走軍に持ち出されたという。得た物は本当に城だけだったのである。勝は徳川家の武装解除に応じているが、脱走兵の事は知らないと言ったであろう。そして、この徳川脱走軍が最も注目したものは「徳川家がどのように処分されるか」である。もし、徳川家が取り潰しとなれば、彼らは一斉に江戸城に襲いかかる。信州甲州に千葉、北関東と箱根…彼らが一斉に決起すれば、江戸城はいきなり全面包囲され、京都との連絡補給線を断ち切られて孤立するのだ。この結果、江戸城を得て江戸を占領し、徳川家も降伏しているというのに新政府は徳川家の処分を好き勝手に決定できなくなった!。勝が主戦派は邪魔だと追い払ったというが、実際には追っ払った形にして兵力の温存を計ったのだというこの説を私に教えてくれたのは、歴史研究家の大山格師匠である。新政府は江戸城という餌にまんまと引っかかり、勝の罠にはめられたわけである。したがって、勝としては旧幕脱走軍が関東近辺にいてもらわねばならず、江戸開城後も歩兵奉行松平太郎が動き回って便宜をはかっている。榎本艦隊が徳川処分決定前に脱走しようものなら、勝自身が追いかけていき江戸湾に引き返させた。勝にとって近藤勇は徳川を救う為の大切な駒であった。そして近藤もまたそれを承知していたのかもしれない。永倉新八らが会津へ行こうと言った時、近藤勇は拒絶している。幕臣として簡単に江戸から離れられない訳があった。この謀略が新政府にバレる事態は断固避けなければならない。京都時代の同志とは言え、永倉たちに言うわけもない。結局、永倉らとは決別し近藤自身は、関東に留まった。この旧幕脱走軍に対する会津藩の関与はかなり大きく行われている。新撰組はもちろん、大鳥圭介の幕府伝習歩兵にも会津藩士たちは入り込み、なんとかこの有力な陸軍を会津へ連れていこうとしていた。会津藩もまた恭順姿勢であったが、もしもの時を考えて反明治政府勢力を会津へ集結させようとしていた。永倉らも会津藩から声が掛けられていたのかもしれない。近藤が捕縛されると、土方歳三は主要兵力を海路で直接会津に向かわせ、自身はたった六人を引き連れて大鳥の伝習歩兵に合流している。土方が会津藩に同調していたとするならば、彼の伝習隊合流の真の目的は、この部隊を会津に引っ張っていく事だっただろう。そうでないならば、鎮撫隊の残党全軍を引き連れて伝習歩兵に入っているはずだ。残念ながら、江戸城開城を待たず四月三日、近藤勇自身は新政府に捕らわれた。流山で新政府軍に包囲され、手勢が訓練の為に出払っていた事から抵抗できなかった。土方は「ここで腹を斬ってはいけない。あくまでも鎮撫の為の活動と言い張った方が良い」と近藤に言い、近藤は新政府陣所に出頭。そこに高台寺党の残党がいた事から新撰組の近藤勇と正体がばれてしまい捕縛されてしまう。この近藤の処遇を巡り、土佐と薩摩で大揉めになっている。坂本中岡を殺したのは新撰組と信じている土佐が、近藤を拷問してでも自白させようと言い出す。対して薩摩は、近藤を拷問する事で勝と近藤の関係がバレる事を恐れ、断固拷問反対。薩摩の平田九十郎は、詰問が勝や大久保一翁との関係に及ぶのをくい止め続けたという。そして、近藤勇は歴とした徳川家家臣として扱い、徳川家へ引き渡そうとする。もし、近藤が勝の狙いをしゃべっていたら、薩摩藩士が信望する西郷隆盛がやってのけた江戸城無血開城という偉業は軽く吹っ飛ぶ。近藤勇も又、災禍が徳川家に及ばないような言動をし続けた。  その後、徳川家は駿河七十万石移封と決まる。他の大名家の石高で見比べれば解るが、幕府時代から大きく削られたとはいえ、大身の大名家として存続した。そして旧幕脱走軍が東北そして函館へ走り、榎本艦隊もまた蝦夷へ向けて旅立っていった。四月二十五日、板橋において近藤勇は斬首に処せられる。近藤の助命も行われたが、勝は動かない。近藤勇を脱走者とし、徳川家とは無関係を装った。近藤の行動を徳川家として命令した事と認めれば、徳川家が甲州勝沼戦の責任を負わねばならない。徳川家の処分がこれから決まるという時に、徳川家にとってマイナスとなる要因はどんな些細な事であろうと排除しなければならなかった。江戸城までただで差し出した勝海舟である。非情にならざるを得ない。勝海舟も近藤勇も真の目的は徳川家の存続である。近藤勇は新政府軍に尋問を受けた時こう答えたという…
 初鎮撫ニ出シト雖トモ、其実ノ所存ハ(徳川)慶喜恭順トハ申セ共、其心中ヲ察スルニ遺憾ノ至リナラン。依之江戸ヲ出テ傍ニ退キ慶喜ノ安危ヲ見届、非常ノ時ハ臣下ノ分ヲ尽シ度トノ事無キニシモ非ズ(平田宗高従軍日録)
 近藤の言う「非常ノ時」とは何を意味するのか…。今後の研究が待たれる所だ。

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