戊辰戦争 咸臨丸事件と彰義隊戦死者埋葬の真相


咸臨丸事件が起こった駿河清水湊(静岡県清水市)


【賊軍兵士遺体埋葬禁止令の嘘】


 慶応四年一月三日に鳥羽伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が勃発した。数々の残虐な行為が行われたが、その中でも遺恨として今も根強く信じられ続けているものに「官軍による賊軍兵士の遺体埋葬を禁止した」というものがある。
 会津戦争で戦死した会津藩士戦死者の遺体を放置して埋葬を許さない。上野戦争で戦死した彰義隊戦死者の遺体を放置して埋葬を許さない。そして、榎本武揚と共に江戸を脱走した咸臨丸が、房総沖で遭難し駿河湾に流れ着いた際、新政府軍艦隊に補足され、やむなく白旗をあげたにもかかわらず、これを攻撃し乗組員を虐殺して遺体を海に投げ棄てた。その遺体が海岸に打ち上げられても、これの埋葬を許さず放置した。
 これらは、現在もなお強く”官軍が逆らった者を恨み、行った非人道的行為”として信じられている。そして、会津、駿河、江戸と三箇所で同様の行為が行われた事から、「賊軍戦死者埋葬禁止令」なるものが存在しており、明治政府が行った最も酷い政策だったという認識が広まっている。

 ところが近年、歴史研究家大山格師匠によって「会津藩士戦死者を埋葬する命令が、新政府から出ていた事実」がネット上で紹介された。会津戦死者の埋葬が遅れた理由として上げられたのが、会津藩の降伏直後からはじまったヤーヤー一揆という騒動と、降雪である。結局、遺体を埋葬したくとも降雪でガチガチに固まった地面を掘る事は不可能であり、翌年の雪解けの季節まで、事実上埋葬が不可能だったという見解が述べられ、「賊軍兵士埋葬禁止令」は存在していないと喝破された。これに関しては、太山格ホームページの「なぜ遺体は埋葬されなかったのか」の記事を読んでいただきたい。

太山格ホームページへ


 これが事実ならば、駿河清水港で起こった咸臨丸乗組員戦死者の遺体放置の事実と彰義隊戦死者の遺体放置の二つのケースはどう理解したらいいのだろうか?。まず、咸臨丸事件に関して私自身が調べた事を書いていきたい。

興津・清見寺にある「咸臨艦殉難諸氏記念碑」


【咸臨丸事件の一般的認識】



 今現在、この咸臨丸事件は一般にどう語られているかを見てみたい。日本テレビが制作したドラマ「五稜郭」に、この事件の描写がある。江戸を脱走した榎本艦隊は、房総沖で嵐にあってしまう。咸臨丸は遭難し、清水港に流されてしまった。艦長小林文次郎は、駿府まで出向いて事の次第を報告していたのだが、その間に咸臨丸が新政府艦隊に発見されてしまう。戦う術のない咸臨丸副艦長春山弁蔵は、白旗を掲げて降伏したのが、官軍はこれを無視。一方的に攻撃を加えて咸臨丸に乗り込み、白刃を抜き払って乗組員を次々に斬り殺していくのだ。
 副艦長の春山弁蔵は「降伏している者を何故斬るのか!。それが官軍のやる事か!」と激怒して抵抗したが、多勢に無勢の咸臨丸乗組員達は次々に殺されていった。
 戦いは呆気なく終わり、官軍は咸臨丸を拿捕。そして、殺した咸臨丸乗組員の遺体を海に投げ棄て去っていくのだ。咸臨丸乗組員の遺体は、清水港に流れ着いた。誰も片付けようとしない。清水の侠客次郎長こと山本長五郎が、子分達に命じてこの遺体を集めて埋葬しようとすると官軍の兵士が駆け付けてくる。そして、賊軍兵士の埋葬を妨害しようとするのだ。これに怒った次郎長は、有名なセリフ「仏さまに官軍も賊軍もあるか!」と一喝し、官軍兵士達を追い払ってしまうという展開だ。
 これを見ていた、徳川家家臣山岡鉄舟が感心し、この次郎長と友好を結ぶ……。
 そんな感じでドラマが作られている。
 咸臨丸船上での殺傷事件は、官軍側の一方的な虐殺として描かれ、遺体埋葬時の官軍兵士の妨害も、あたかも”賊軍兵士遺体埋葬禁止令”が出されているかのような描き方である。このドラマは、日本テレビの人気シリーズ年末時代劇の一作で、幕末戊辰戦争ファンなら、必ず見ているといって過言ではない作品である。故に、この認識が一般的に最も広まっているものだろうと私は思う。

 では、ドラマという創作物ではなく史学的にはどうだろうか?。今度は、咸臨丸事件のあった清水市の歴史が書かれた資料『清水市史』を見てみよう。

 江戸から駿河行きを拒否した武士は、榎本武揚に従い蝦夷地、いまの北海道函館にむかった。その隊列に軍艦咸臨丸があったが、銚子沖で台風にあった。咸臨丸は下田港に避難し、つづいて船体の修理のため清水湊に入港しようとした。三保本村沖合にさしかかったとき、官軍方の富士、飛竜、武蔵三艦が砲撃、官兵が乗込み白刃の激戦となった。官軍は数にものをいわせ、旧幕兵は多くが戦死のうき目にあった。その死体は海に投げ棄てられた。ようやく上陸したものは、徳川家の厳しい追及をうけることとなった。村へは「一夜之宿も貸申間敷候、隠し置き、後日露顕候ハゝ、当人ハ勿論五人組村役人迄」も断罪するといった廻状がとどけられた。徳川家は家系存続のため、旧幕臣がたよるのを断ちきったのである。清水町民は戦争の恐しさをまのあたりに見聞、折戸湾にただよう死骸に手をふれるものはなかった。
 清水の侠客次郎長は「死ねば皆仏」と死体を引きあげ、向島の土左衛門埋葬地、通称土左衛門松の根元に葬った。このとき、清水町妙生寺の住職乗暹は、浄土三部経を石に書き供養したという。いま、山岡鉄舟が書いた「壮士墓」のところが土左衛門松のあったところであり、清水市の観光名所となっている。官軍と咸臨丸との砲撃戦の名ごりに、清見寺に鉄の弾丸が所蔵されていたが、いまはない。元海軍副総裁榎本武揚は、この話を聞き、明治十九年(一八八六)に「食人之食者、死人之事」(人之食を食む者は、人之事に死す)と書き、清見寺の庭に「咸臨丸殉難記念碑」をたてた。
『清水市史 第二巻(著作権者;清水市 吉川弘文館発行)』p7〜8より抜粋

 『清水市史』は、ドラマほど誇張はされていないが、それでも官軍兵士が一方的に虐殺を行ったという説でまとめられている。”賊軍兵士埋葬禁止令”は一切出てこない上、官軍兵士も出ない。かわりに徳川家が厳しい探索を行っており、町民たちは「触らぬ神に祟り無し」と遺体を放置したのだと説明している。これが、現在の定説と思って間違い無い。
 ドラマでは、あくまでも官軍が悪者として描かれているが、『清水市史』では、むしろ徳川家の態度に遺体放置の原因があるという見解だ。


壮士墓の地にある説明文


【咸臨丸船上での虐殺は本当か?】


 ドラマが、『清水市史』といった地元の郷土史を踏まえて造られているだろう事は想像に難くない。では、『清水市史』の認識はどこで生まれたのだろうか?。私は、『幕末軍艦咸臨丸(文倉平次郎著・中公文庫)』から生まれたのではないかと考えている。この資料は、咸臨丸に関する基礎文献として現在も重視されている一書で、当然郷土史もこれらの基礎文献を踏まえて書かれているはずだからだ。
 では、この本から事件の様子を探っていこう。

 咸臨丸江戸湾脱走時の乗組員は以下の通り。

船将:小林文次郎
副長:春山弁蔵
乗組員:春山鉱平、蛯子末次郎、高山岩次郎、杉浦常五郎、袖岡善之丞、小島栄太郎、岩田政蔵、中村市郎兵衛、原秀郎、高橋専吉、野口六右衛門、長谷川清四郎、加藤常次郎、今井幾之助、高橋与三郎、長谷川得蔵、曾根量平、水夫三十余名
 この他、脱走の陸兵などを合わせ二百名は下らないと『幕府軍艦咸臨丸(文倉平次郎著・中公文庫)』にある。

 戊辰戦争当時、咸臨丸は機関降ろして輸送船になっていた。自走する能力が無く、帆船として活用されていたわけである。この為、江戸脱走の時は蒸気機関を持ち自走できる回天丸に引き綱で引っ張ってもらっていた。八月二十二日に房総沖で暴風雨に遭遇するのだが、この時にその引き綱が切れて艦隊について行けなくなった。さらに転覆を避ける為に、帆船の命とも言うべきマストを切り倒し嵐を乗り切っている。
 大きなダメージを受けた咸臨丸の艦長小林文次郎は、とても蝦夷までの航行に耐えられないと判断。榎本武揚にその事を伝え、徳川宗家が移封されたばかりの駿河清水港に入って降伏する事にした。
 ところが風に遮られて果たせず、八月二十九日やむなく下田港に入っている。
この時に、清水行きに反対する徹底抗戦派や徳川家臣ではない他藩士などを降ろした。咸臨丸に乗り組んでいた小田原藩士関重麿も、この下田で咸臨丸を降りている。彼は後に『旧小田原藩士関重麿遺稿戊辰国難記(『江戸 第四巻 戦記編』大久保利謙編・立体社発行)』という史料を書き残し、この時の咸臨丸乗船体験を後世に残した。

 下田に入った事は、下田の名主清吉や小田原藩軍監安永又吉の通報で新政府の知る所となる。新政府軍は、直ちに富士、飛龍、武蔵の三隻の軍艦に柳河藩兵30人・阿波藩兵30人を乗せて派遣した。また、帰国しようとしていた肥前佐賀藩兵に対しても、帰り道は東海道だから、この地域を陸から警戒するよう命令を発している。
 『幕末軍艦咸臨丸』には書かれていないが、この時の新政府は、日本最強の軍艦開陽丸を擁する榎本武揚の旧幕艦隊を恐れていた。榎本艦隊は、彰義隊残党という名の陸兵兵力まで持っている。新政府にとってみれば、これは脅威だったはずだ。新政府艦隊は、この消えた榎本艦隊の捜索に全力をあげていた。
 下田を出航した咸臨丸は、九月二日になんとか駿河清水港に入る。ここで咸臨丸は船体を修理し、武器弾薬や器械等を陸揚げしたという。また乗組員や兵士は、地元の漁民宅や博徒の家に一時潜んだりした。艦長の小林文次郎は、事の次第を駿府にいる徳川家に伝えるべく出頭する。静岡藩徳川家は驚き、直ちに山岡鉄舟を派遣して乗組員を説諭した。また新政府に報告する為に文書も出されているが、電話も無線も無い時代なので、届くまでに時間が掛かる。
 静岡藩徳川家がこうした動きをしている最中の九月十四日、咸臨丸捜索任務の為に富士山丸、飛龍丸、武蔵丸の新政府艦隊三隻が品川を出航、十八日に清水港に入港した。
 『幕末軍艦咸臨丸』の著者文倉平次郎の書くところによれば、この時富士山丸は咸臨丸に向けて発砲しながら近づいて来たという。咸臨丸は抗戦不能の状態であったので、副長春山弁蔵と弟の鉱平、原秀郎は甲板上で白布を振って他意なきを示したが、新政府艦隊は発砲をやめない。端艇を下し小銃を撃ちながら咸臨丸に近づき、抜刀して甲板に侵入した。春山はこれを止めんとして制止したが新政府側はこれを聞き入れず、遂に戦となって春山兄弟は敵弾に倒れ、その船員のほとんどが殺害されて船は拿捕されたのだという。
 この解釈は、ほぼ『清水市史』と同じであり、この『幕末軍艦咸臨丸』を踏まえて書かれたのだろう。それが一般的定説として現在広まっていると私は考えている。
 だが。この咸臨丸事件の描写説明に関し、『幕末軍艦咸臨丸』では少々厭らしい書き方をしているのだ。
 『幕末軍艦咸臨丸』では、小田原藩士関重麿の書いた記録『旧小田原藩士関重麿遺稿戊辰国難記(『江戸 第四巻 戦記編』大久保利謙編・立体社発行)』を史料として最初に紹介し、その内容を著者の文倉平次郎が説明という形で事件全体を書いている。ところが関重麿は咸臨丸が下田港に入った時に上陸しているから、清水港へ行っていないのだ。つまり、この記録は”後日誰かから聞いた話しを書いた”もので信憑性が薄い。事実この史料では、咸臨丸乗組員の遺体が埋葬された場所が間違っていたり、次郎長が埋葬した咸臨丸乗組員七人のところを三十六人に増えていたりと間違いが多い。非常に信憑性が欠けているのだ。
 著者の文倉の解説は、この信憑性の薄い史料を、読み下しにするような形で、”官軍が無抵抗の乗組員を一方的に虐殺したとする”関重麿の見解をそのまま書いているだけなのである。次郎長の埋葬した遺体の数などが間違っているという指摘はしても、それ以上の検証は行っていない。
 著者は、その後に”一方的虐殺ではない”という史料も、同書に掲載している。

 「十八日清水エ入港候処脱艦咸臨丸碇泊ニ付則三艦相圖ヲ定メ賊艦之挙動窺居候内富士武蔵之両艦大砲打掛候付飛龍丸モ同ク発砲候処賊艦降旗ヲ揚候間三艦矢留ヲ令シ直ニ飛龍丸ヲ賊艦エ乗寄セ士官之者水夫ヲ引率シ乗移候処賊抜刀及接戦候付弊藩銃隊看板上ヨリヒトシク連発賊海中ニ飛入或船底ヘ潜匿致シ候海中之賊ハ悉ク弊藩銃隊ヨリ狙撃シ潜匿之賊ハ悉ク召捕ヘ同廿三日賊艦引連凱旋仕候」 (『太政官日誌 第百十』より抜粋)

 これは、実際に咸臨丸を拿捕した柳河藩の届け書だ。これによれば、海上で咸臨丸を発見したので、新政府艦隊三隻で発砲攻撃した。咸臨丸が降伏旗(白旗だろう)をあげたので、三艦は”矢留め(矢留め、矢を射る事を留める=攻撃の中止の意味)”を命令し、咸臨丸に近づき乗り込んだ。すると賊が抜刀し接戦を挑んで来たので、銃隊で甲板上より連射討伐した。賊は海中に飛び込んだり、船底に隠れたししたので、海に逃げた賊は狙撃し、船底に隠れた賊は捕らえた。という。
 この文章は『太政官日誌』や『復古記』にも掲載されている。もちろん『幕末軍艦咸臨丸』にも掲載されているのだが、著者の文倉は何故か掲載するに留めて、やはり他の史料と照らし合わせての検証をしていない。また同書に春山弁蔵の息子春山知安翁の談話も掲載されていた。

「私が明治三年清水で咸臨丸殉難者三周忌の法事に、始めて清水に往った時は十一歳で、その時人々の語るを聞覚えで御話すれば、あの時官軍の軍艦が清水の港内に這入るや否や、大砲を打ったとの事で、(中略)官軍が乗込むや甲板に出て居った春山兄弟に暴言を吐くので、鉱平は怒って刃を抜き父も加勢して遂に切り合いとなった。水夫等は驚て唯呆然と見て居ったとの事です。士官の人が十二、三人程戦ったが、小銃で狙撃さるるので中には海中へ飛入り遁れんとし、後に殉難者建碑の発起人と為った笹間洗耳の如きは、裸になって泳ぎ着き漸く免れたとの事です。」

 この談話に関しても、著者はなんの検証も考証もせずに、著者自身が御子孫から聞いた話しをそのまま紹介だけだ。つまり、この事件は本書において何の検証も行われていない。関連史料を列挙し、紹介しただけなのだ。

 では、これらを元に実際に起こった事を私が検証してみよう。
 咸臨丸を発見した新政府艦隊は、大砲を撃ちながら近づいた。これは官軍側の柳河藩も咸臨丸乗組員側の伝承とも符合しているから間違い無い。そして、咸臨丸が白旗を掲げたので攻撃を止め、拿捕する為に近づき乗り込む。実際に乗り込んだ柳河藩側の届け書にそうある。乗り込んだ新政府軍兵士は、咸臨丸乗組員を罵ったりした。春山御子孫の聞いた話しではそうなっている。柳川藩の届け書には無いが、これを報告すれば柳河藩の不手際になるから報告しなかったのだろう。春山鉱平ら咸臨丸乗組員は、主戦派だから元々新政府に良い感情を持っていない。この罵詈雑言に我慢できなかった彼らは、抜刀して斬り掛かってしまう。この展開は、春山御子孫の証言からである。春山御子孫は、実際にその場にいた訳ではないが、咸臨丸乗組員の生き残りから父の最後を詳細に聞かされていたはずだ。だからデタラメとは考えにくい。斬り掛かってきたのだから、新政府軍も応戦しなければならない。柳河藩の届け書ではそうなっているし、これは当然そうするだろう。結局、咸臨丸船上で斬り合いが始まってしまい、咸臨丸乗組員に多大な死傷が出たという事ではないだろうか。
 咸臨丸乗組員が、一方的ともいえる被害を受けたのは、咸臨丸自体が降伏を目的に清水港に入っており、斬り合い時には武器弾薬は陸揚げされて船内に無い事、咸臨丸乗組員の武装解除の最中に斬り合いが始まったとも考えられる。
 つまり”降伏し無抵抗だった咸臨丸乗組員を一方的に虐殺した”のではなく、”船の上で起こった喧嘩が、殺し合いに発展した”のだ。
 このように、咸臨丸乗組員側である春山弁蔵の子孫が関係者から直接聞いた話しと、官軍側の柳河藩届け書の内容がほぼ一致するから、十中八九こういう展開だっただろうと私は考えている。
 だが、一部のサイトでは、この新政府艦隊の行動を「挑発」として紹介している所もあるようだ。残念なことに、こうした見解を述べるサイトには、参考とした史料やどういう検証を行ったのかも書いていないので、どのような理解をしたらこの結論にたどり着くのか私には解らない。大砲を撃ちながら咸臨丸に近づいた事を指しているのか、それとも新政府軍兵士が罵詈雑言を浴びせた事が挑発だったと言っているのかも解らない。薩長兵ならともかく、彼ら柳河藩や阿波藩が挑発してでも殺したいと思うほど遺恨があったとも思えないし、挑発と断定するだけの根拠は史料にはない。これも検証しないまま、官軍だからという大雑把な見方から出てきた悪意ある誇大妄想に過ぎず、こうした形で事実とは違う俗説が生まれてくるのだと私は考えている。
 
 本来なら、こうした検証を行うべきなのだが、『幕末軍艦咸臨丸』の中では検証まで行わず、史料の紹介で留めてしまっている。結果、史料の紹介の中で一番最初に紹介され、かつ解りやすく解説された信憑性の薄い関重麿の記録が、ドラマなどで採用もしやすく映像や小説となり、一般に広まってしまったのではないだろうか。だが関の記録は、本人がその場に居たわけではないから、記録としては参考程度で信頼はできない。つまり現在の定説は真実ではないという事だ。


壮士墓のある地(墓は、見せびらかす物ではないというポリシーなので壮士墓そのものの写真は掲載せず)


壮士墓の横に立つ碑


【咸臨丸乗組員遺体の埋葬禁止と清水次郎長】


 船上で殺された咸臨丸乗組員の遺体は、海に捨てられた。これは事実である。なぜならば、次郎長が漂着した遺体を葬っているからだ。疑う余地はない。問題は、次郎長が埋葬するまで、この遺体が放置された事だ。
 一般的には、会津戦争での会津藩戦死者の遺体が放置されていた事から、”賊軍戦死者埋葬禁止令”なるものが存在し、明治政府は日本全国に命令したが故だと囁かれている。囁かれていると書いたが、会津地方では定説とされているものの静岡地方では定説とはされずに俗説に留まっているからだ。一般のファンが、会津郷土史の見解をフィードバックして”きっと会津と同じだろう”と信じているだけなのである。だから、『清水市史』にも”禁止令”に触れず、徳川家が切り捨てたのだという見解が示されてているわけだ。
 明治新政府が、このような禁令を出したという説の出所は会津郷土史である。ところが現在の会津郷土史は、”無かった”方に見解を転換した。日本史探偵団主催大山師匠の調査では、「埋葬命令が出されている」事実が紹介されており、その存在はもはや否定的だ。私も『幕末・明治の御用留め(秦野市)』で、神奈川県秦野市のあたりで出された禁令を調べてみた。全国規模で出されたのであれば、秦野市地区の禁令として出てくるはずだが。見あたらない。
 この事件とは関係無いが、いわゆる「赤報隊偽官軍事件」の方に関連するもので、「尊王を名乗って金や米を奪う者がいたら通報するように」という禁令が出ているのを見つけた。出されたのは2月であり、まさにこの禁令によって赤報隊は”偽官軍”となって断罪される事になる。神奈川県秦野市にもこの達しが出されているのだから、この”偽官軍に関する命令”は、日本全国に出されたものだと確認できる。ところが、”賊軍兵士埋葬禁止令”は見つからない。
 では、なぜ有りもしない埋葬禁止令が一般に信じられているのか?。これに関しては、太山格ホームページ(http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/)にアップされている「なぜ遺体は埋葬されなかったのか」の記事をお読みいただきたい。

太山格ホームページへ


 話しを戻そう。咸臨丸乗組員の遺体が放置された理由が、禁止令ではないとするならば、これをどう理解するかである。
 ここでヒントとなるのは、『清水市史』にある「徳川家が彼らを見捨てた」という見解だ。実はこの時、徳川家家臣団は大きく二つに割れていた。一方は官軍にどこまでも従順に恭順の姿勢を示し、徳川家家名の存続を最優先とする恭順派。もう一方は、明治政府を”天皇を手中に収め操り人形にした薩長が、徳川家を滅ぼそうとしているのだ”とする徹底抗戦派、つまり主戦派である。恭順派は、主戦派を徳川宗家を戦いに巻き込み、お家存続を危なくする不忠者と敵視した。主戦派もまた、戦ってもいない内から恭順を叫び、薩長に頭を垂れる恭順派を軟弱・弱虫と非難して敵視している。駿府70万石で移封と決まり、これに従って駿河に移った徳川家家臣の多くが恭順派だ。主戦派は徳川家脱走という形を取り、ある者は大鳥脱走軍へ、また有る者は房総方面で徳川義軍府を旗揚げし、またある者は榎本武揚の旧幕艦隊に身を寄せた。彰義隊もまた主戦派の集まりである。ただし彰義隊は本来、将軍警護を目的として勝海舟の指揮下で結成された恭順派の組織であった。ところが天野八郎が内部の主導権争いで勝利を収め、本来のリーダーであった渋沢が彰義隊から離脱すると、完全に主戦論の組織となってしまう。
 咸臨丸事件が起こった際、静岡藩徳川家はこの恭順派が主導権を握っていた。彼らは戦う道を捨てて、どこまでも新政府に従順である姿勢を示さなければならないと考えている。そうしなければ、徳川宗家がお取り潰しになりかねない。
 こうした恭順派が主導権を握る徳川家の領地清水港に、主戦論を掲げた榎本艦隊の咸臨丸が入港したのだから大変である。当然ながら、咸臨丸乗組員は徹底抗戦派と思われていた。彼らが清水や駿河で戦争を起こせば、徳川宗家も巻き込まれる。それは、即座にお家お取り潰しに発展してしまう。だからこそ、『清水市史』にあるような「一夜之宿も貸申間敷候、隠し置き、後日露顕候ハゝ、当人ハ勿論五人組村役人迄」も断罪にすると、静岡藩徳川家から村々に通達が出されたのだ。「咸臨丸乗組員に一夜の宿も貸してはならぬ。匿ったりした事が後日解ったら、匿った当人はもちろん五人組の仲間や村役人までも処断する」という厳しい通達に、村人達は恐れおののいた。”触らぬ神に祟り無し”である。咸臨丸に一切関わらないようにしようと村人達は思った事だろう。その結果、咸臨丸乗組員の遺体が港に漂着しても、誰も触らない。関わろうとしない。つまり放置されてしまったのである。
 これを放っておけず、遺体を回収埋葬したのが東海道の大親分と言われた清水の次郎長こと山本長五郎だった。次郎長は、清水港の顔役でもある。遺体も放って置けば異臭を放つし、魚を捕る網に引っかかったりして漁を営む漁民が非常に困惑していた。しかし、関われば”咸臨丸を匿ったな”と御役人から何を言われるかも解らない。
 次郎長は、困っている漁民達にかわり、遺体を回収して土左衛門松の下、現在「壮士墓」のある場所に埋葬した。漁師はいつ海で死ぬか解らない。だから、海で遺体を見つけたらそれが誰であろうとも回収し、埋葬するという暗黙の風習がある。このルールに従い、漁師の町である清水の次郎長も咸臨丸乗組員の遺体を回収し埋葬したのだろう。この時に埋葬されたのは、春山弁蔵、春山鉱平、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、加藤常次郎、長谷川得蔵の七人だ。この事で、次郎長は静岡藩から呼び出され取調を受けさせられている。どういう詰問をされたのかは解っていない。だが「咸臨丸に同情する者と見られ、乗組員を匿っていないだろうな?」ぐらいは聞かれただろう。この時に言ったセリフが、有名な「仏様に官軍も賊軍もあるか!」だった。次郎長にしてみれば、遺体を埋葬して何が悪いという所だろうし、徳川家が気にしているのは遺体ではなく生きている乗組員だったから、次郎長は御咎め無しで帰されている。
 さて、ここで一つの問題としてあげておきたいのは、静岡藩の出した「咸臨丸乗組員に一夜の宿も貸してはならぬ。匿ったりした事が後日解ったら、匿った当人はもちろん五人組の仲間や村役人までも処断するという厳しい通達」である。この通達に、一夜の宿も貸すなとあるから、”生きている咸臨丸乗組員”をターゲットにしたものだと解る。しかし、死者に関しては何も無い。静岡藩にしてみれば、死者は悪さをしないから気にする必要は無かった。だが、清水の人々から見た時、この通達が死者にも適用されると勘違いする可能性はあったろう。庶民が曲解していた可能性もある事を、ここで指摘しておきたい。


清水次郎長こと山本長五郎の生家


【静岡藩徳川家の事情】


 こうして見ていくと、明治新政府というより静岡藩徳川家が咸臨丸乗組員に何の温情もなく厳しく当たったという形に見える。従って『清水市史』のような見解も又やむを得ないのかもしれない。
 徹底恭順派である徳川家臣達が、徹底抗戦派を主家を滅ぼす危険分子と見て、温情をかけてやる必要を認めなかったとも考えられる。下手に匿えば明治政府から嫌疑を掛けられ、再興したばかりの徳川家が危機に陥るとも限らない。
 では次に、徳川藩徳川家の事情を見てみよう。大きく三つある。

@旧幕臣駿府移住の問題
A旧幕臣の生活費と再就職の問題
B天皇の東京行幸

 まず@の旧幕臣の駿府移住問題だが、Bの天皇の東京行幸と江戸遷都と密接な関係にあった。新政府は戊辰戦争の最中。すでに遷都を計画していた。特に江戸への遷都は戊辰戦争で荒れる東国をいち早く治め、江戸を安定させる特効薬として実行に移されている。だが、江戸に遷都する為には元々そこに住んでいた膨大な数に上る徳川家臣団の移住と立退が必要である。この作業の為に、徳川家と明治新政府は敵味方・官軍賊軍という事情を越えた所で協力し合わなければいけなかった。
 Aの旧幕臣の生活費と再就職の問題も大きい。『静岡県史』によれば、慶應四年四月現在の「万石以下惣人数」は布衣八七二人、御目見以上五九七二人、御目見以下二万六千人、合計三万二千人余りと計算されている。駿河70万石で養える家臣の数は、勝海舟の計算では五千人前後とされ、実際に静岡藩士として移住したのは五千四百人である。後の膨大な幕臣達は、いわばリストラされた。榎本武揚が蝦夷開拓を思い立ったのもここに原因がある。リストラとなった膨大な家臣達を榎本は放って置けなかったのだ。新政府に対し、蝦夷地を徳川家に与えて欲しいと歎願し、この徳川家臣団を使っての蝦夷地開拓に榎本は賭けたのである。だが、結果的には函舘戦争となり夢は破れる事になった。
 では、新政府はこの大リストラを見て見ぬ振りをしていたのだろうか?。実は、新政府もこの徳川家の窮状を救おうとはしている。江戸を首都に新国家建設に取り組む新政府だが、優秀な行政官僚が圧倒的に不足していた。そこで、これまで行政を担当していた徳川家臣団を明治新政府の役人に転職させて活用する道を考えている。明治新政府は、徳川家家臣団の中で駿府に連れて行けない者を優先し、明治新政府が雇用するという方策を徳川家に示していた。
 問題はその人数である。資金という面では、明治新政府は非常に貧乏であった。戊辰戦争を借金で遂行していたという一面すらある。膨大な幕臣達全員を雇用(朝臣化=天皇の家臣化)しては、すぐに破産してしまうのだ。そこで、明治新政府もまた徳川家家臣から雇用はするが、優秀な者を厳選し、数を絞っての雇用とした。徳川家としては、なるべく多くの家臣を朝臣にしようとし、明治政府側はなるべく厳選し人数を絞り込もうとしたのである。この件は双方とも一歩も引かず、難航したようだ。結局、九月二十五日に、明治新政府側が朝臣化の締め切りを行ったのだが、まさにその月に咸臨丸が清水に入港した。ここで咸臨丸を庇い立てすれば、その分だけ明治新政府が”明治政府に抵抗する勢力を庇っているのか”と徳川家を疑い、朝臣化する人数を減らす可能性もあった。徳川家としては、この朝臣化に賭けている面もあったので、咸臨丸に一切の温情を掛ける訳にはいかなかったのである。
 Bの天皇行幸は、明治政府側の思い切った一大イベントであった。
 説明した通り徳川家は駿府に移住したが、明治政府はこの徳川家の態度を感心し、江戸遷都の為に京都から江戸へ向かう天皇のルートに東海道を選ぶ。恭順したとはいえ、元朝敵第一等にして、明治政府最大の敵であった徳川家の領地駿河を天皇に通過して貰うのだ。もし、徳川家に二心を抱けば天皇を襲撃して奪われるという事態にもなりかねない。それだけ明治政府が、朝敵とされた徳川家を信用していたという証でもある。だが、徳川宗家にその意志は無くとも徳川家臣に不埒者がいるかもしれない。事実、大鳥圭介や榎本武揚といった徳川家家臣達は抵抗を続けている。だから、明治政府は徳川家にこうしたトラブルが起こらぬよう厳命していたし、東海道一帯を警戒もしていた。徳川家も神経を尖らせ、事故が起こらないよう慎重に地域支配を行っている。天皇が、駿河や清水を通過するのは九月前後とされた。まさにその九月に咸臨丸は清水に入港してしまったのである。
 以上述べたように、静岡藩徳川家と明治新政府はこれらの問題に関し、お互いに協力共存の関係にあった。対して咸臨丸は、主戦派である榎本武揚に組みし、乗組員は明治新政府を認めない全員徹底抗戦派である。この様な情勢下の中で、咸臨丸が来たのだから、とてもではないが徳川家が温情を掛ける事は不可能であったろう。

 以上、咸臨丸事件に関する真相を説明してきた。咸臨丸の清水入港の時期が、非常にまずい時期であった。それは徳川宗家にとっても、明治新政府にとっても、咸臨丸乗組員たちにとってもである。咸臨丸船上での斬り合いに関しても、明治新政府の命令を受けていた柳川阿波両藩兵が、降伏している咸臨丸乗組員を罵った事、罵られたからと刀を抜いて斬り掛かってしまった咸臨丸乗組員たち。非はどちらに有るかとえば、私は双方にあると言わざるを得ない。
 ただ、明治政府が賊軍となった者達を”どこまでも酷い目に合わせてやろう”という怨念で、殺戮や遺体放置が行われた訳ではない事だけは確かだ。この咸臨丸事件は、不幸な事故であったとしか言いようがないのではないだろうか……。


駿府城址 二の丸櫓(復元)



【彰義隊戦死者遺体放置の問題】


 咸臨丸乗組員の遺体放置に関する説明はすでに述べた通りである。残されているのは彰義隊戦死者の遺体が放置されたとする件だけだ。この問題も少しばかり調べてみたので、その結果を報告したいと思う。


上野戦争があった上野公園


【彰義隊遺体埋葬の俗説と通説】

 
 慶応四年五月十五日に上野戦争は起こり、わずか一日で上野彰義隊は壊滅した。戦争の経緯や戦闘の模様などは、今回のテーマではないから説明はしない。問題は、そこで戦死した彰義隊戦死者がどう扱われたのかである。
 一般的に言われている説を、まず紹介しよう。

 上野戦争が終わった後、官軍側戦死者の遺体はいち早く片付けられた。しかし、彰義隊の遺体は”賊軍であるが故に”放置される。旧暦の5月は新暦に直すと7月で季節は夏だ。その上、戊辰の年は異常気象で雨が多く、上野戦争も雨の中で戦われていた。こうした事情から、彰義隊の遺体は腐敗し、異臭を放っていたという。この惨状を見かねた円通寺の住職大禅佛磨大和尚が”厳罰を覚悟で”官軍に埋葬の許可を願い出て許可され、町人三河屋幸三郎と共に二百六十六体の遺体を集めて埋葬した。

 以上、これが一般的に最も広まっている説だと思われる。一般に広まっている説だが、実は定説ではない。いらない尾鰭が付いているのだ。上記文章の内”賊軍であるが故に”と”厳罰を覚悟で”という部分が、実は尾鰭でありこれを除けば定説になる。この尾鰭は、いわゆる賊軍遺体埋葬禁止令の影響を受け、知らぬ間に追加されてしまった部分なのだ。遺体を埋葬した大禅佛磨大和尚と三河屋幸三郎を英雄とする為に、わざと権力者を悪という風に見せている。むろん、彼らの義挙は素晴らしいものだが、明治新政府を血も涙もない悪党と見立ててしまっては、正しい評価とは言えなくなる。
 庶民感覚から見た時、とにかく権力者は”お上”と言われ、庶民を苦しめる権力者と見られてきた。江戸時代は徳川がお上だったし、明治維新ではこれが薩長を中心とする新政府だった。庶民にとってお上の顔が変わっただけで、お上はお上なのである。そんな訳で、お上を恐れない者が持て囃された。この構図はどこも同じらしく、咸臨丸事件でも見られる。義侠清水の次郎長が、お上に「仏様に官軍も賊軍もあるか!」とタンカを切る場面など、庶民から見れば痛快だったろう。そんなわけで、咸臨丸事件を追っていると、タンカを切る相手が官軍だったり、清水湊を新領地とした徳川家の役人だったりとバラバラである。お上は権力を持っていれば誰でも良かったのだ。こうした所から俗説が生まれてくる。

上野公園彰義隊の墓の横に建つ碑



【彰義隊遺体放置の真相】


 では、彰義隊の遺体が放置されたという問題に関して史料から調べていこう。

 東叡山戦後の光景を見れば、金壁燦爛として、あたり眩ゆき迄、建て連ねたる、伽藍堂塔の大観も灰燼となり。昨日にかはる今日の寂寞、死骸累々として、鮮血の流るるのみ、然れども官軍の威を憚り、能く之が死骸を収拾するものなし。時に箕輪円通寺の主僧佛磨なるものあり。三河屋幸三郎と計り、之が火葬を為さんことを官に請ふ。官之を許す。同時に上野凌雲院へも、死骸取片付の儀を、因州藩参謀河田佐久馬より命じたり。(後略)(『彰義隊戦史』山崎有信著・マツノ書店発行)p202より抜粋

 彰義隊の基礎史料である『彰義隊戦史』では、このように記述されていた。”官軍の威を憚って”という部分から、咸臨丸事件と同じく遺体埋葬を”自発的に”遠慮していたという事である。逆に言えば、明治新政府が禁止したのではないという事だ。もちろん、咸臨丸事件同様に、彰義隊残党の捕縛は厳しくなされていたから、庶民が”遺体を片付ければ、彰義隊に味方している関係者と疑われかねない”と思い、触らぬ神に祟り無しと片付ける者も出なかったという事になったのではないだろうか。
 ともかく、この史料から官軍である明治新政府は許可を出している。円通寺は、官軍からお墨付きを貰ったという事で、大っぴらに賊軍兵士を供養できる場となったという。私から見れば、明治政府を恐れすぎている。堂々と”埋葬供養したい”と言えば、問題がなかったように思う。遺体の放置は、疫病の温床にしかならない。江戸は数年前にコロリ(コレラ)病が流行り、想像を絶する死者を出していた。官軍へ逆らう者への見せしめや怨恨を晴らしたいが為に、こうした伝染病流行の危険を犯すほど明治政府はバカではない。では、なぜ明治政府が彰義隊遺体を放置してしまったのかを考えたいと思う。

 去る慶応四年辰年五月十五日、於當山戦死仕候、凡二百廿人餘之者有之、同月十八日右死骸至急取片付之儀、因州参謀河田佐久馬殿より、當山凌雲院へ被仰渡候に付則清水堂脇奥之方へ埋葬仕候。其後何方より歟、香華等相手向候者、多々有之、然る處右場所自然地窪に相成候故、雨天之節雨水共相溜り、實以て愍然之至に御座候。殊に當年は最早七回忌にも相成候間、何卒右埋葬地大凡九十坪程、當山へ御任せ被成下置候様、奉願候。左候得共、不見苦様境界相付け、本分にも相叶、難有仕合に存候。右之段本年七月七日奉願上候通、何卒出格の御憐愍を以て、右願之通御許容被成下候様、奉願上候。以上。
 明治七年九月十九日 東叡山 寛永寺
 東京府知事大久保一翁殿
(『彰義隊戦史』)山崎有信著・マツノ書店発行)p206より抜粋

 この文章は、明治七年に寛永寺から出されたものである。彰義隊戦死者を埋葬したものの墓碑は無いままだった。そこで、七回忌を迎えて墓碑を建てようという事になり、その際に寛永寺から出された文章だ。
 この文章の中で、寛永寺側は「去る慶応四年辰年五月十五日、於當山戦死仕候、凡二百廿人餘之者有之、同月十八日右死骸至急取片付之儀、因州参謀河田佐久馬殿より、當山凌雲院へ被仰渡候に付則清水堂脇奥之方へ埋葬仕候。」とある。これを見ると、十五日に上野戦争が起こった後、三日後の十八日には官軍参謀河田佐久馬から”彰義隊の遺骸を至急片付けるように”と依頼されているのだ。河田佐久馬は自分が指揮していた山国隊兵士まで動員し、彰義隊の遺体を埋葬している。

 戦争から二日たった十七日、山内のあちらこちらに遺体が散乱していた。その死体をかたづけるために人足を雇い、砲台を埋葬場にして四尺ほど堀さげて七十余体を埋めた。衣服を剥ぎとられて丸裸の死体もあった。とくに団子坂より東の死体は手足ばらばらで、人数の確認はむずかしかったが、その数二百人と思われた。また山内にあった彰義隊の仮設病院は火が放たれて、重傷者は焼死したらしく悪臭が鼻をついた。
(中公文庫『山国隊』仲村研著・中央公論社発行)p186より抜粋

 この資料から官軍部隊である山国隊が、上野戦争二日後の十七日には彰義隊戦死者の埋葬をしていた事が解る。これは因州鳥取藩で官軍参謀として戦った河田佐久馬側の具体的にとった行動だが、今度は先に述べた箕輪円通寺の主僧佛磨と三河屋幸三郎の埋葬活動を見てみよう。

 事後、官軍側の死者はすみやかに片付けられたが、彰義隊市の死体は見せしめのために放ってあった。これを見かねて箕輪(三ノ輪)円通寺の住職大禅仏磨和尚は、三幸ことかざり職で侠客の気があった三河屋幸三郎とはかり、山内で火葬を政府に乞うて許された。仏磨は十余人の人夫を用いて二百六十六の遺体を集め、それを上野の山の入口山王台で焼いて、遺骨をすべて自分の寺に納めて墓を建てたと伝えられる。三幸及び仏磨を追善する碑石にもそうある。
 しかしわずか一日にして二百六十六の死骸を野外で焼くことは可能だろうか。
「私が仏磨さん従て上野の火葬に行きました時は、戦争が済んでたしか三日位たつてからと思ひます。……なかなか一日でみな焼く事は出来ません、まづ其の内の幾部を焼きまして、其の幾部分の骨を円通寺へ持て帰りました。其の外の死骸の幾部分は山王台の塵溜の穴へ入れて仕舞ひました」(当時荼毘に従った南千住の大井清太郎の証言。)
 これが実際だろう。
(新潮文庫『彰義隊異聞』森まゆみ著・新潮社発行)p32より抜粋

 この『彰義隊異聞』は、二〇〇四年に出された本で、今後彰義隊研究の基礎文献となりうる一冊である。この本は、比較的に冷静に書いてあり信頼できるものの、少々彰義隊贔屓の嫌いがある。テーマが彰義隊に関する聞き書きを集め、彰義隊を中心に記述している性質上仕方がないのかもしれないが、幕臣の末端にいる者達の不平不満は書いても、幕臣の頂点にいる徳川慶喜の視点や薩長ら明治新政府からの視点が欠けており、中立的な判断をするには、本書だけでは足りない。あくまでも彰義隊側から見た著作である。上記文章の中で”見せしめのために放ってあった”とあるが、著者がそういう見解で書いたのならば俗説に惑わされていると指摘せざるを得ない。たぶん、そうではなく仏磨を追善した碑石にそうあることから、そのまま書いたのだろう。先にも説明したが、仏磨や三河屋幸三郎を褒め称えている内に出来た俗説が、そのまま碑石に刻まれたのだと思われる。見せしめにするならば、一週間や十日ぐらいは置いておかないと効果が無いと私は思う。二日や三日では、見せしめとしては中途半端だ。
 それはともかく、この民間の活動も上野戦争終了後の三日後から埋葬を始めていた。この事から、仏磨や三河屋幸三郎ら民間と河田佐久馬率いる山国隊といった官軍部隊が、共同作業で、彰義隊戦死者の遺体を埋葬していた事がわかる。という事は、彰義隊戦死者は、二日から三日間の放置だった。
 長い方の三日間を取るとしても、これは放置されたと呼ばれる程の日数だろうか?。私の祖母が死んだ時は、死亡した日から五日後にお通夜をやって翌日に火葬にしている。死亡当日にお通夜をやったとしても、火葬埋葬は翌日になる。確かに、真夏の戦だから遺体からの異臭は有ったろう。それよりも気が短く彰義隊贔屓の江戸ッコの気質を考えると、「官軍戦死者はすぐ片付けたのに、彰義隊戦死者の遺体は放って置くのかよ!」という不満が俗説を生んだようにも思えてならない。
 ちなみに、官軍側戦死者の遺体が早く片付けられたのは納得がいく。戦が終わり、戦死した戦友をほったらかして帰る藩士など基本的にはいない。必ず持って帰り、主君である藩主に報告をする。藩主は、藩の為に戦い命落とした者達を褒め、その遺族の生活を保障するのが武家の常識だからだ。遺体を放っていくのは、負けた方である。負けた側は逃げねば自分が死んでしまう。戦友の遺体を回収している暇など無い。だから、官軍側は戦争終了直後から、自分達と同じ藩士の遺体を探して回収していったのだろう。
 その後、新政府軍は彰義隊の残党狩りや北関東で暴れる大鳥圭介の旧幕脱走軍への対処でてんてこ舞いとなった。上野の寛永寺からは輪王寺宮が姿を消してしまい、新政府は日本全土にお触れを出して行方を追うという始末だ。
 特に彰義隊残党狩りは徹底的に行われた。大村益次郎の上野戦争での方針が”戦意の低い彰義隊士は、戦う前から戦争をちらつかせて山から退去させる。戦争も彰義隊に逃げ道を与えてやり、早期決着を図る”というものだった。それだけに彰義隊の残党も多く生き残り、江戸の町に潜伏した。官軍部隊はこちらの対応に全力をあげている。そうしなければ、生き残った彰義隊残党が集まって、江戸のどこかでまた挙兵などという事になりかねなかった。だから、「戦争が終わったから、敵の遺体も片付けよう」などという余裕も時間も全くない。そんな中で、遺体埋葬に奔走した河田佐久馬と山国隊はたいしたものだと言っていいだろう。
 
 さて、こうしてみると彰義隊戦死者は三日間だけ放置された事になる。その三日間が長いか短いかという問題は、前述したように見た人の立場によって変わるだろう。問題は、この放置を明治新政府が意図的にやったのかどうかだ。
 史料から読み取れたのは「官軍の威を恐れて”自発的に”関わらないようにした」という事である。咸臨丸事件と同じで”触らぬ神に祟り無し”と考えた人が多かったという事だろう。「賊軍兵士埋葬禁止令」というものは史料からは出てこない。もっぱら、佐幕派に同情的な俗書(研究書ではなく、単なる娯楽を求めた読み物)俗説に多いから、これもまた咸臨丸事件と同じく会津郷土史が唱えた「賊軍兵士埋葬禁止令」なる虚妄を彰義隊に当てはめただけだったのだろう。明治新政府が遺体埋葬に積極的だったとまでは言わないまでも、河田佐久馬のように自ら進んで遺体を埋葬した官軍参謀もいた。新政府軍の中枢の目は、もう北関東や会津に向いており、賊軍とされた戦死者達の処置は後回しにされたという理解が最も正しいと私は考える。つまり、”怨恨で意図的に遺体を放置した”のではないという事である。
 ただ、記録にもあるように中にはバラバラにされた彰義隊戦死者の遺体や、死んだ後で刀で傷つけた痕跡のある遺体も多かったという。イタズラなのか何なのか解らない。

上野寛永寺にある彰義隊の碑



【伝言ゲームの果てに】


 以上、咸臨丸事件と上野戦争における彰義隊戦死者遺体の放置の件を見てきたが、やはり賊軍だから放置されたのだという理解”賊軍兵士遺体埋葬禁止令”は、虚妄であるとしか言いようがない。「官軍の威を恐れ、”自発的に”関わらないようにした」結果、遺体が放置されてしまったというのが実情だと思われる。庶民にも罪悪感はあったのだろう。だからこそ、その罪悪感から逃げようとし”官軍を恐れるが故に”という理由が、いつの間にか”官軍がそう命令したのだ”という形になって伝えられてしまったのだ。
 その結果、有りもしない罪が明治新政府い与えられ、果ては現代において会津若松市と山口萩市の友好の邪魔となったり、幕末ファンの間で不必要な争いを生む原因となっている。そういう状態に至った以上、この問題は放っては置けないと思い筆をとった。

 この問題は、非常にデリケートな問題である。安易にネットなどで書き立てる事をせず、根拠となる史料や論証文献を読んだ上で一般に紹介した方がいいだろう。一番危ないのは、一般書店などで”読み物”として売られている俗書だ。週刊誌のゴシップ記事並にアテにできないものが多い。こうした俗書は、いわば”伝言ゲームの最終伝達者”である。最終伝達者の言う事を真に受け、それを伝えていけば間違いが大きくなるばかりだ。
 現代に生きる我々は、伝言ゲームの果てに作り出された俗説ではなく、伝言ゲームの出発点に目を向け、その言葉が何であったのか正確に知り伝えていく事が大切なのだと思う。


(文責:幕末ヤ撃団 梅原義明)

【「彰義隊遺体放置の真相」記事における訂正とその後の追跡調査】



円通寺に移築された上野戦争時の黒門


 2012年1月1日、この時私は故郷の静岡で年を越していた。翌二日に東京の自宅へ帰ってメールチェックをしたところ、一通のメールが届いている。見ると彰義隊埋葬地として名高い円通寺さまからであった。当ホームページの記事を読み、円通寺に伝わる口伝との相違が見られるとのことだ。この口伝に興味を持った私は、早速返信を送ってお会いしたいとお願いしたところ、快く承知して頂きお話しを聞く事ができた。
 今回は、それを踏まえ埋葬問題に関してさらに考えを深めたいと思い、本項目を追加で記す。

【円通寺に伝わる口伝について】


 まず、本題の円通寺に伝わる口伝を紹介したい。
 現在の円通寺住職乙部さんによれば、円通寺住職佛磨和尚は当初単独で上野の山へ行っていたという。上野戦争直後のことであり、当然新政府側の残党狩りが厳しく行われていたことだろう。佛磨和尚は、「法要に行ってくる」と言い、単独で戦いが終わったばかりの戦場で読経していたらしい。それを新政府軍の兵が不審者として捕らえ、小伝馬町の投獄した。佛磨和尚は、牢獄の中から「死者に官も賊もなし。すべからく皆、等しく仏なり」との書簡を大村益次郎宛に出した。そこには歎願も供養願いも無く、ただ自身の主張を記しただけのようだ。この時、江戸の行政を総括していた大村益次郎は、佛磨和尚に「ねんごろに供養すべし」と返答し、釈放となったようである。
 つまり、佛磨和尚は新政府に対して彰義隊供養願いを出していないのだ。逆に新政府側から供養するように言い付けられてしまっている。その結果として官許が下った形となった。
 彰義隊ではないお坊さんの捕縛に関して、現円通寺住職乙部氏は新政府上層部の恨みから出たことではないにせよ現場兵士が多生なりと恨んでおり、彰義隊関係者と覚しき者を捕らえたのではないかとの考えを示されている。私も又、恨みで政策や軍令が出されることは考えにくいが、実際に彰義隊と殺し合いを行った現場官軍兵士たちは当然恨みや怒りの感情をもっていたはずと率直に思う。さらに、この時寛永寺住職で彰義隊の精神的支柱となっていた輪王寺宮が上野を脱出し行方をくらませており、新政府はその行方を追うべく各地に捜索の命令を発している。上野にいる坊主は皆寛永寺関係と見られて捕縛や調査の対象となっただろうと考えられる。
 また、歴史研究家大山格師匠は「戦闘が終わった直後の新戦場をうろつく人々の中には、戦死者が持つ銃砲刀剣といった武器類や金錢を追い剥ぐといった悪質な人が多い。また銃砲武器類が持ち去られて犯罪などに使用されないように取り締まるのは、明治政府将兵の最優先事項だったはずであり、そういった面からの理由で佛磨和尚が捕縛された可能性もある」と指摘している。
 口伝では佛磨和尚捕縛から彰義隊戦死者埋葬の官許が下るまで、三河屋幸三郎がまったく出てこない。『彰義隊戦史』によれば、この三河屋と佛磨和尚が共同で埋葬許可願いを出していることになっている。これに関しても、寛永寺の御用を務めていた三河屋が円通寺に官許が下ったことを聞きつけ、共同で埋葬を行ったという形に口伝ではなっている。そこに至る以前は、三河屋と円通寺は完全に接点が無く、共同で埋葬願いを出せるはずがないという事になる。
 これらのことを円通寺現住職乙部さんよりお話しをして頂き、私も始めて知った事柄だった。彰義隊の本は、ほとんどの場合文献史学であり、まず文献を重視する。そう考えた時、二次史料ながらも『彰義隊戦史』は基礎となる本であり、口伝よりは根拠を示せる『彰義隊戦史』の説を多くの著者や研究者は採用しているのだろう。私も基礎史料は重視されるべきだと思うものの、盲信する事の危険性を改めて認識した思いだ。
 口伝の信憑性に関しては、無関係の人々が口々に伝えた口伝は伝言ゲームとなり、事実からねじ曲がっている場合が多いものの、円通寺に伝わる口伝は代々の住職から住職へ伝えられてきたものであり、寺の経歴や生い立ちに関わる部分ということで信憑性は非常に高いと私は判断している。これは剣術の奥義に似ており、責任をもって正確に伝えられてきたからだろう。


黒門に残る弾痕跡


【円通寺住職佛磨和尚に関して】


 彰義隊戦死者の遺体を埋葬した人物として、彰義隊関連書に登場するのだけれどもその経歴に関して詳しく説明がされず、私にとっては謎の人物だった。このあたりもお話しが聞けたので紹介したいと思う。
 現円通寺住職さんの説明によれば、佛磨和尚という人は奇抜な人だったようである。出身は信州らしい。出家した原因も七歳で人を殺めたためとするが、赦免になっているので事実かどうか怪しいとの事。ともかく、長野から江戸に流れてきて中規模寺院だった円通寺の住職となったという。もしかすると死に場所を求めていたのかもしれないと円通寺住職は話す。つまり、ハナから自分の命など気にしない人物であり、危険な事も平気で行う気概があったと思われる。戦闘が終わったばかりで、砲煙も残る新戦場に単独で読経しに行くなど通常は考えられない事だ。しかし時として人は、己の危険を顧みずこのような義侠に満ちた行動に出るときがある。先日起こった東北大地震の際、いち早く被害地に入り、死者を弔うべく読経するお坊さんたちがいた。その姿に感動したという歴史研究家大山格師匠もまた、それを彷彿させると佛磨和尚の勇気ある行動を賞賛している。私も全く同感である。
 その後、ひょんな事から賊軍兵士を埋葬できる官許が下りた寺ということから円通寺は檀家を大幅に増やして大きくなり、自然と佛磨和尚の地位と名誉も上昇した。これを嫌った佛磨和尚は、なんと寺を出奔してしまい行方知れずになったという。どうやら福島県でひっそりと一生を終えたとのことである。

【賊軍と官軍、そして怨念に関して】


 さて、本記事において主たるテーマは「明治政府による死体埋葬禁止令は存在しない」ということを論証することにある。薩長らが徳川家を恨まないはずはなく、当然怨念はもっていた。ただ怨念は感情論であり、それを理由に政策を発するような愚はしていないということである。何しろそれは大義名分にならない。
 明治政府上層部がそうだったとしても、中間管理層や最前線の兵士達はそうではなかった。事実、彰義隊戦死者の遺体は故意に傷付けられた形跡があったことは、記録からも読み取れる事実である。したがって、最前線部隊の隊長の中には見せしめに遺体を放置しようと考えた不届き者がいても不思議ではないが、今のところそれを行ったという証言や史料を少なくとも私は見ていない。だから、否定も肯定もできないのが現状である。ただ、一つの例をあげるとすれば、幕臣小栗忠順の死がこれの典型例だ。新政府上層部は、小栗を捕らえる際、その実行部隊に捕縛令を出している。ただし抵抗し抗戦に及んだ場合はその限りではないとした。小栗達は一揆勢に襲われた際に銃砲をもって撃退しており、新政府軍はそれを知っていたのである。だから、大人しく捕縛されればよし。抵抗したら戦争するしかないという判断だった。小栗達は派遣されてきた官軍部隊に大人しく捕縛されている。ところが、この部隊は戦功稼ぎか恨みからか勝手に小栗を処刑した上、新政府上層部に「抵抗したので」という嘘の報告書を提出しているのだ。こうした事例は多い。
 新政府軍の現場の兵士たちにとってみれば、彰義隊は「錦旗狩り」と称して、官軍兵士をたびたび襲撃した憎むべき敵であったろうし、彰義隊から見れば天下太平を保ってきた徳川家に難癖を付け、朝敵に仕立て上げて討伐軍を起こし、ついには江戸まで我が物とした官軍兵士は憎むべき敵であったろう。上野戦争直前までは、この両者はたびたび喧嘩やイザコザを起こしている。それだけに現場の兵士達という視点に立てば、つい先ほどまで殺し合いをしていた相手であり、温情を掛けるどころか文字通り死者にむち打つ行為を行った可能性は否定できない。これは現代の戦争でも同じで、敵兵士の遺体を残忍に扱う事は禁止しても行われる事である。
 さらに、当時の武士階級を主とする知識層は、国学や水戸学、朱子学といった思想が一般的常識として用いられていた。これらは天皇を日本の王として体系化されており、徳川幕府の正当性もそこから定義付けられ、かつ忠義が説かれている。つまり、天皇に逆らう事は絶対悪とされた時代だった。それゆえ官軍と呼ばれたのであり、彰義隊がいかに自分達の正義を訴えても賊とされれば道理が立たないという現状がある。だからこそ薩長といった藩が天皇を頂いていることに、不満を募らせていたのが当時の佐幕主戦派であったろう。官に逆らえば直ちに賊とされた。それも天皇に逆らうという最も重い罪人とされる時代であり、そこに道理や理由は無い。不条理と思われるかもしれないが、それが当時の皇国史観の常識だったのである。だからこそ、彰義隊の生き残り達も会津藩士の生き残り達も、自分達は賊ではない。自分達の言い分を聞いてくれと言い続けてきたのだ。
 官軍に逆らう側の兵士達は、すべて罪人だった。当然、その戦死者もまた罪人の遺体として扱われている。だから罪人を助ける行動(埋葬も含む)は、今で言う犯罪幇助罪のような疑いをかけられてしまうのだ。もっとも疑いをかけられて実際に処罰を受けるかどうかは別だが。遺体埋葬関連では、「官軍を憚って」という記述が多く出てくるが、裏を返せばそれがあるから遺体を片付けにくい風潮になっていたということである。

【本文中の記事訂正部分に関して】


 先に書いた本編中の中で、私の考え違いも見つかった。この場を借りて訂正しておきたいと思う。まず、佛磨和尚と三河屋幸三郎ら民間と河田佐久間ら明治政府に属する山国隊が共同作業で埋葬したように記述したが、これは私の勘違いである。実際は、明治政府軍兵と民間とで別々に埋葬作業が行われたとのことだ。佛磨和尚や三河屋幸三郎ら民間主導で行われた埋葬は、大村益次郎ら民政を担当した部署からの指示で行われた。一方、河田佐久間ら山国隊は、軍事方に属しており指示命令の系統が違うから共同作業にはならないとのことである。
 さらに、『彰義隊異聞』を引用した部分で、

 事後、官軍側の死者はすみやかに片付けられたが、彰義隊市の死体は見せしめのために放ってあった。これを見かねて箕輪(三ノ輪)円通寺の住職大禅仏磨和尚は、三幸ことかざり職で侠客の気があった三河屋幸三郎とはかり、山内で火葬を政府に乞うて許された。仏磨は十余人の人夫を用いて二百六十六の遺体を集め、それを上野の山の入口山王台で焼いて、遺骨をすべて自分の寺に納めて墓を建てたと伝えられる。三幸及び仏磨を追善する碑石にもそうある。
(新潮文庫『彰義隊異聞』森まゆみ著・新潮社発行)p32より抜粋

 という部分で、私は著者の森まゆみさんが追善の碑にそうある事から、「見せしめのために」と説明したのだろうと書いたのだが、円通寺の碑文を確認したところ間違いであることが判明した。
 佛磨和尚の碑には、「而憚官軍人莫敢歛之者(しかして官軍を憚って、敢えて(埋葬を)願う者無し)」とあり、三河屋幸三郎の碑には「人罪畏無敢歛者(人罪を恐れ、敢えて(埋葬を)願う者無し)」となっている。つまり、円通寺に立つ碑文には、どこにも「見せしめのために放ってあった」と書いていないのである。
 結論としては、まぁあまり言いたくはないのだが森まゆみさんが俗説を信じており、しかも碑文に書かれていると捏造的に筆がすべった可能性を指摘しておきたい。ただし、私が確認した碑文は円通寺にあるものであり、他に碑石が存在するのであればその限りではない。この件は、今後も追跡調査していくつもりである。


(文責:幕末ヤ撃団 梅原義明)

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【戊辰戦争 咸臨丸事件 関連史料集】


『旧小田原藩士関重麿遺稿戊辰国難記』

(『江戸 第四巻 戦記編』大久保利謙編・立体社発行 164頁〜167頁より抜粋)

二十八日御藏三宅二島ノ間ヲ經テ流ル時ニ官船飛龍丸ノ碇泊スルアリ故ニ其襲撃ニ備ヘ四斤砲ニ装藥シ徹夜戒嚴ス是ヨリ先キ蟠龍丸又風浪ヲ避ケ伊豆ノ川津港ニ入ル晦日外浦港ニ廻航シ遠ク我船ヲ認メ士官ヲシテ訪問セリ徳田氏外浦ニ至リ之ニ答フ此夜又戒嚴ス九月朔日飛龍丸錨ヲ抜テ港ヲ出ツ因テ解嚴ス(飛龍丸ノ乗員ハ傷者ト病人ノミニシテ士官ハ皆上陸シテ飲酒シ在ラス故ニ我船ノ至ルヲ恐ルヽ甚シク遂ニ避テ抜錨セシト)我船ハ遂ニC水港ニ至ラント決ス余船將小林氏ニ會シ其意見ヲ扣ク氏曰ク檣折レ船体ヲ損ス故ニ目的地ニ航スヘカラス止ヲ得スC水港ニ至リ徳川家ニ自首セントスルナリト余謂フニ共ニ同港ニ至リ自首スルトキハ更ニ舊藩ニ交付セラレ死ヲ賜フ一ノミ寧ロ直ニ舊藩ニ自首スルニ如カストシ余ヵ所存ヲ陳述シ遂ニ小舟ヲ雇ヒ辭シテ同港姉崎村ニ上陸ス
(中略)
又咸臨丸ノC水港ニ入ルヤ陸兵ト銃砲彈藥重量ノ器械ヲ密カニ陸揚ケシテ該破損ヲ修繕シ再ヒ東航セン事ヲ謀リシニ九月十九日官軍富士山艦外二隻ヲシテ之ヲ襲撃セントシ富士山艦ハ突進シテ港内ニ入リ發砲シテ咸臨丸ヲ撃ツ時ニ小林船長ハ上陸シテ在ラス副船長春山辨藏及仝弟某原秀郎甲板上ニ出テ白布ヲ振テ他ナキヲ表スルモ尚發砲止マス直ニ端舟ヲ御シ小銃ヲ射本船ニ近ツキ抜刀シテ甲板ニ侵入ス春山等之ヲ止ムレトモ肯セス遂ニ甲板上ニ戰ヒ衆寡敵セス春山兄弟ハ數凡ニ中テ死ス原氏又右手ヲ傷キ刀ヲ落シ跳テ室内ニ入リ火藥艙ヲ火セントシ左手ニ湯呑茶碗ヲ持チ炭火ヲ盛リテ同艙ニ至レバ會計吏加藤氏已ニ艙口ニ立ツモ仝鍵ハ船長腰ニ付ツテ上陸シ其扉ヲ開ク事能ハス故ニ僅カニ散塵ノ火藥ヲ集メ之ニ火スルニ扉下ニ至テ消ヘ艙内ニ入ラス官兵ノ之ヲ侯視スルヤ恐怖シテ船ヲ遁レ本艦ニ移リ數町ヲ隔離シテ百斤砲ヲ以テ同艙ヲ狙撃セシム二ナリ一ハ其彈艙前ヲ貫キ過キ二氏ノ腰ノ上數寸ヲ犯ス爲ニ筋骨麻痺シテ立ツ事能ハス只忙然タリ數刻ニシテ官兵復侵入シ恣ニ降人を屠殺シ原氏ヲ甲板上ニ引出シ左舷ニ据ヘ將ニ斬首セントセシニ艦長令シテ猥リニ降傷人ヲ殺ス勿レト遂ニ拘セラル(以上原氏直話ナリ)是ヨリ先キ小林船長ノ静岡藩廳ニ在リテ其襲來ヲ聞キ急歸シテ咸臨丸ニ入ラントスルヤ官兵氏ヲ甲板上ニ亂打シ數疵ヲ付ケ捕シテ拘留シ即日上陸ノ銃砲彈藥等ヲ分捕シテ品川海ニ凱旋セリト云後同市ノ侠客次郎長ナル者春山兄弟等浮屍三十六収得テ三保松林中ニ埋メ碑ヲ立テシト云フ
【ちょこっと解説】
『慶応戊辰小田原戦役の真相(石井啓文著・夢工房発行)』によれば、この史料を残した小田原藩士関重麿は、下田港漂着までは咸臨丸に乗り込んでいましたが、清水港で自首する事を知り、下田港で咸臨丸を降りて小田原藩へ自首しました。咸臨丸の顛末は他人から聞いた話しを記録したものだと思われます。関に話した人物が誇張したのか、関自身が誇張したのかわかりませんが、かなり誇張されているようです。また次郎長が回収した遺体は七体で、三十六体ではありません。埋葬場所も三保の松林ではなく向島の洲の中です。

『もしほ草』

(『幕末明治新聞全集 第4巻』木村毅著・株式会社世界文庫発行 345頁〜346頁より抜粋)

 徳川家脱走の帆前軍艦咸臨丸、銚子沖においてなんふうにあひ、つひに駿州C水湊にて、官軍の軍艦にやぶられたる事に付、確報を得たるにより、くはしくこゝにしるせり。
 咸臨丸先月中旬、下總銚子沖を西南の風にて間切居たりしところ、をりしも風西に北とへんじ、一點のKくも中ぞらにあらはるゝと見ましに、海面いちゑんの暗夜となり、雨は盆をかたむくるがごとく、夜にいりて風ますますはげしく、船中のひとびと、一人もたつてあゆみ得るものなきほどの事なり。翌朝十時ごろにいたり、船のかたふく事ほとんど四十八度、船まさにくつがえへらんとするにより、檣三本とも切てすて、からくも洋中にたゞよひゐたり。船中のひとびとも、いまや魚腹にほうむられん、いとあはれなるありさまなりしに、あくる日の十二時ごろにいたり、やゝかぜしづまり雨やみて、本船所在をはかるに、まさに下田の港外にあり。よつてめいめい所持のじゆはんふろしきのるゐを、械またはみさほのさきにかゝげ、からくして下田のみなとに入津せしところ、官軍のはたたてたる軍艦一隻、港内とうりうせしかば、いまはのがれはてんみちもなく、みなうちじにのかくごをなしたりに、いかゞなしけんその船は、ともづなを解きて出帆せり。擧船またよみがへりたるこゝちして、日本の小ぶね四十そうをしてひきふねとし、からくも駿州C水みなとにつきたりしに、徳川の家にても、官軍に抗拒せんとて、主命にそむき脱走したるふねなれば、とらへて官軍にたてまつらん事もちろんなりとて、その手くばりをなし、そのことを擧船のものへもいひわたし、船將をはじめあらかじめ上陸なしたるところ、突然として官軍の軍艦おそひきたり、砲をひらく事數囘なり。ふねにのこりしわづかの士そつ、たゝかはんとするいとまもなく、はや艀をおろし近付きたり、たちまちに舟中へきりこみたり。第一等の士官春山辨吉は、一人刀をふるつてはせむかひ、敵數人うちとりたれども、その身も數ヶ所のいた手にたへず、つひにいさぎよくうちじにす。その事をきくやいなや、船將小林文四郎は自縛して軍門にうつたへ、闔船の人命を償んとねがひしとぞ。その餘の士卒は徳川氏にてとらへて、天裁をあふぐとのよしなり。
(注:春山辨吉は春山辨蔵の誤り。小林文四郎は小林文次郎の誤り)
【ちょこっと解説】
『もしほ草』は、横浜居留地の米人ヴエンリードの主催で横浜居留地で発行された新聞です。明治新政府の言論統制の中にあって、横浜居留地の新聞故に難を逃れて発行され続けた珍しい新聞でした。ただ新聞という事で、戦争に関する記述が物語的に着色されたり、誇張されています。また、関東人の人気を集めようと幕府方を贔屓し記述されています。中には幕府方の勝報を捏造したりもしており、今ひとつ信憑性に欠ける点があります。

『北洲新話』

(『函館戦争史料集』須藤隆仙編・新人物往来社 126頁〜127頁より抜粋)

語に曰く、国乱れて忠臣顕はると。誠なる哉此言や、時は明治元年戊辰秋八月十九日、我徳川の海軍開陽・回天・蟠龍・神速・千代田形(以上五艘は軍艦)・長鯨(運搬船)・咸臨・三保(帆前)等の八艦、大挙して江都品湾を発し(夜第十二字)東北の間に向け脱走す。(始め正春澱水の難により征東の六師已に逼り我老君は冤を訴ふるに由なし、江城已に官兵入城せしかば麾下有志の徒憤懣に堪へず、妻孥を捨て君命に背き、或は房総両毛の間に旗を挙、或は奥に走り会津等と盟を結び、西上以て君冤を金闕に訴へんとて、東北已に戦巷となれり。又志士等江戸上野山に義集し、社稷恢復を計りしも官軍のために襲潰せらる。是の時に当つて我海軍副総裁榎本釜次郎は、百万歎願泣訴なすことありと雖、朝廷更に聞食されず。君家已に覆滅せんとするに及び大に憂憤し、同盟二千余人を将ひ一片の書に微衷を呈して此夜脱走せしなり。此時余が輩を始め東台戦後潜伏せし者二百余人、長鯨に乗ることを得たり、彰義隊是なり)。

二十日天陰風穏、衆船互に先後す(長鯨は一時間に凡五里半を航す)
二十一日狂風強く、衆船尽く離散す。
二十二日激雨烈風浪益勁し。
二十三日常海鹿島灘に至る頃(「バルメートル」二十九度五十分)颶風大に起る。
(長鯨は漸く一時間に二里を進む、因て其夜凡六時間程、車輪を外して風波に任せ船を厭ひ且火丁水男の労を憩はしむ、時に激浪舷を超へ、艙に入り、艦為に動揺して房中床を漂し船具破壊する事夥し其の因却言べからず)
二十四日暁来風些く撓む、因て汽力を益し走航す。時に右に金華山を見る、巳牌に至て長鯨先づ奥の松島に入て投錨す。千代田型次で入る(長鯨の綱を以て引来りしに風浪に一筋を斬られ、又先に刀を以て一筋を切れり)。
二十六日回天入津す(暴風のために三檣を損す)。
二十七日開陽東名に来港す(東名より松島まで五里許、開陽も、又颶風のために楫を失ひたり)。
九月五日神速入湊す。此月十八日蟠龍亦来りて錨下す(九月十八日官船三艘咸臨を襲ひ発砲なすこと数十、春山兄弟、原某、甲板上に出て白旗を揮ひ他なきを示す、肯ぜず。船を近けて手銃をとって狙撃す。春山兄弟忿闘して死し、原某創を蒙り長谷川某等又死す)。此行や三保は颶の為に総の銚子岬暗礁へ乗当て、全船尽く破壊す(乗込しものは辛じて上岸することを得たりと云)。咸臨は豆の下田へ漂流せしを蟠龍是を牽て駿の清水港に入りしに、官船富士山・武蔵・飛竜等の諸船追来つて咸臨を品湾へ奪戻す。蟠龍は早く脱せり。是より先開・回・長等の諸艦に乗りし陸兵は尽く上岸し、各船は東名に連碇す(此間開陽の舵及諸船の損処修繕を急にす)。

『説夢禄』

(『函館戦争史料集』須藤隆仙編・新人物往来社 54頁〜55頁より抜粋)

慶應四戊辰秋八月、徳川海軍総督榎本和泉を魁として会議同盟せし海陸軍並諸藩士と共に都て三千五百余名、開陽・回天・蟠龍・長鯨・三嘉保・咸臨・神速・千代田の八艘に分ち、乗組(余其先東台の役に与して共に朝敵の名義に陥り都下膝を容るゝ他なく因て渡辺大井と共に、七月廿七日、開陽艦に至りて榎本泉州に会し、余が同盟二十五名共に乗組て協力せん事を議するに、泉州云各船既に人満て寸間なしと、不得止同盟に書を出して止る。品海出帆の日長鯨に乗り替て仙台に至る故に長鯨中のことを云)。本月十九日夜十二時、各艦品海を出帆す。開陽は三嘉保を曳き、回天は咸臨、長鯨は千代田を曳きて、房総の東海を航し(西洋一時間に凡そ五里半程を奔る)、廿二日、下総の銚子沖に至る頃、北風吹起り雨を帯たり。次第に風雨烈く、船の進行漸遅々たり、且つ各艦の曳綱も切れて分離せり。
廿三日、常陸の鹿島灘に至る頃、近年未曾有の颶となり、激浪起ち騰って船の動揺殆んど起居に不堪。次で船具も破損するに至るが故に、其夜凡そ五、六時間が程船を厭ひ、且水夫火焚の労を憩しめんと車輪を外し、風浪に任す。廿四日、暁に至て少しく風の撓むを見、船内共に力を尽せしが往々遥か右に陸奥の金花山を見る。船中大に再生の歓をなす、午後三字頃松島の港に入て碇を投ず。千代田次で入る。翌廿五日、長鯨乗組の陸軍松島に上陸す(我輩の外七、八名未だ陸軍に加らざる故、問ひ合せ中渡辺氏風邪の気味なりしか、日を経て熱気強く九月四日より既に熱病となり、船中の医に薬養を頼み、次で起居自由ならざりしが、四十余日を経て快気に赴けり。其先外の七、八名は陸軍に加はり我輩二人は将官室に籠て凄然日を送れる故、奥羽の動揺を知らざりき)。二十六日、回天艦入港せり。廿七日、開陽艦東名の浜に入港す。九月五日、神速艦入港す(颶逢て常陸水戸の辺に風の撓むを待しと云)。十八日、蟠龍艦入港す(颶に逢て伊豆の下田に着次で駿河の清水港に入る官艦来り襲ふを免れて来れり)。三嘉保は颶に逢て千辛万苦し、漸く上総の銚子辺の浜に至りしが、誤りて暗礁に乗り上げ終に破壊す(多賀上総、伊庭八郎等を始として七百余人乗組しが、辛じて上陸なし、四方に散乱す。
溺死する者数人ありと。此船に大砲小銃弾薬其他種々の器械を積入しが空く海底の塵となれり)。咸臨丸は颶に逢て、南に吹流され、辛じて伊豆の下田港に入り、次で駿河の清水港に入て破損を繕はんとせしが、官艦来り砲戦に及び二十余名戦死し、終に官軍に分捕れて品海に曳れしと聞く。

『復古記』

(『復古記 第八冊』東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行 14頁〜28頁より抜粋)

榎本武揚奪フ所ノ軍艦二隻、咸臨、蟠龍、下田港ニ漂到シ、遂ニC水港ニ入ル、大總督府、富士、飛龍、武蔵三艦ヲ遣シテ之ヲ追捕セシム、是日、三艦撃テ其一隻咸臨ヲ獲、其人ヲ捕斬ス、其上陸セシ者ハ、駿河藩ニ禁錮ス、一隻ハ先ツ遁ル。

一筆啓上仕候、然ハ自下田表別紙之通注進申越候、定テ脱走乗込、於何方歟敗軍候船ト奉存候、仍テ不取敢豆州松下兵隊ノ内二拾人餘、當城ヨリ三拾人、下田表ヘ繰出、成丈揚陸セシメ、可討取手配仕候、若又不可討儀モ御坐候ハヽ、當所ハ最早繰出候事ニ付、早々御申越可被成下候、以上
     八月晦日 戌刻          安永又吉
      大村益次郎様
      吉村長兵衛様
 ○別紙
今二十九日未下刻、當港ヘ軍艦一艘致入津、早速爲見屆町役人一人乗組罷出、様子相伺候處、徳川家咸臨丸ニテ、何方ニ於テ怪我有之候哉、大破損ニテ檣等モ切折レ、蒸氣等モ損シ候様子、當港入ノ節モ一向烟等不出、烟筒等モ相見得不申候、何方ヨリ何方ヘ御通艦被成候哉、並乗組人數等伺申上候得共、一向事實御答無之、唯艦名文ケハ、元徳川家軍艦俗事役ノ加藤保太郎ト申御方、兼ノ見知候故、御同人ヨリ承リ申候、呑水百石急々御注文被仰付候、バッテーラ等モ一艘モ無御座、何分怪敷奉存候間、此段不取敢以飛脚御注進奉申上候、以上。
                      下田町 名主
                      C  吉   印
 辰八月廿九日酉中刻
 小田原
 御軍監方 御役人衆中様  
               鎮守府日
               記軍務官記
○大總督府達書
               各通 増田虎之助
                  石井富之助
徳川藩脱艦下田港ヘ漂着候ニ付、爲取始末被差遣候旨 御沙汰候事。
 但、軍監安永又吉、中村四郎ト申談可取扱候事。
   九月三日 
     東征總督記、増田明道、石井靄吉事蹟
 ○四日同上達書三通
               翔鶴丸
徳川脱艦下田港ヘ漂着候條、依テ同艦取始末中、下田港警衛可致旨、御沙汰候事。
   九月
 ○
               肥前藩
               歸國ノ兵隊
徳川脱艦下田港ヘ漂着候條、依テ同艦取始末中、其藩歸國之兵隊ヲ以テ、下田ヘ揚陸警衛可致旨 御沙汰候事。
   九月
 ○
               豊瑞丸
徳川脱艦下田港ヘ漂着、右爲取調肥前兵隊乗込、急速同港ヘ廻船可有之旨 御沙汰之事。
   九月
     東征總督記、鎮將府日誌
 ○十日同上達書二通
               各通 有川彌九郎病氣代 白尾采女 中島四郎
                           増田虎之助 石井富之助
右、徳川脱艦爲追捕、駿州C水港ヘ被差越候條、諸事申談可致處置旨 尾沙汰候事。
   九月
 ○
               各通 富士艦
                  飛龍丸
                  武蔵丸
右、徳川脱艦爲追捕、駿州C水港ヘ被差越候事。
 但、日限其外武蔵丸、飛龍丸可申談候事。
   九月
     東征總督記、鎮將府日誌、中島佐衡事蹟
 ○十一日同上達書
               阿州藩三十人
今般徳川家脱艦爲取調、駿州C水港ヘ軍艦差廻候節、可爲乗組旨 御沙汰候事。
   九月
     東征總督記、鎮將府日誌
 ○十三日同上達書
               柳河藩三十人
徳川脱艦爲取締、駿州C水港ヘ軍艦差廻候ニ付、可爲乗組旨 御沙汰候事。
   九月
     東征總督記、鎮將府日誌、立花鑑寛家記
 ○
一昨十三日御達之趣ニ付、別紙之通、昨十四日出張爲致候、此段御屆申上候、以上
               立花少將内
               野間節
   九月十五日
 ○別紙
 覺、
 一隊長 壹人   一半隊長 壹人   一兵士 四拾七人
 一醫師 貳人   一役人  壹人
 合五拾貳人
右之通御坐候、以上。
               柳河少將内
               野間節 
               立花鑑寛家記
 九月十五日

 ○駿河藩上申書三通
當家所持之咸臨丸、本月二日駿州C水港ヘ著岸、軍艦役並小林文次郎ヨリ別紙冩之通屆出候ニ付、猶相糺候處、乗組定人員之外ニ乗組罷在候モノモ有之、決テ粗暴之所爲ハ無之候得共、不束之次第ニ付、艦中ニ積有之候砲器類取上、相愼罷在候様申渡候處、悔悟歸伏、深恐入謹愼罷在、奉待 御處置候旨申聞候、段々奉蒙鴻 恩候上、猶奉願候儀實以恐懼之至奉存候得共、猶又以非常寛大之 天恩御仁恤之御沙汰被 仰出候ハ、重疊難有奉感銘候儀ニ御坐候、尤艦並取上置候砲器類ハ、 御沙汰次第ニ可仕奉存候、依之、此段奉願候、以上。
   九月
               浅野次郎八
               服部綾雄
               河野左門
               大久保一翁
 ○上申ノ日ヲ佚ス。
 ○別紙
 咸臨丸御船C水港著帆仕候儀申上候書付、
               軍艦役並
            御屆   小林文次郎
咸臨丸御船諸御荷物積入、去月廿一日暁三字半後品海出帆、相州浦賀手前ニテ風潮之タメニ淺Pヘ流寄、沖合ヨリ囘天是ヲ見受、近寄引出シ方致シ、再出帆仕候處、同廿一日夜相房海ニテ追々暴風吹募リ、豆州大島沖合ニ至リ候頃、彌風力相増シ、御船動揺甚敷、諸々船具相損シ、終ニ諸帆吹切、同廿二日午前暴風暴雨最甚敷、船具欠損シ、片帆モ無之ニ付、進歩相止メ、逐々船體横浪横風ヲ受ケ、凶暴風力之爲ニ御船右舷之方ヘ偏傾ニ及、海水船内ヘ押入殆覆没可仕之危難ニ立至リ候ニ付大決仕、無餘儀右舷之大砲ヲ捨、且大檣ヲ切斷仕、一時?覆之危難ヲ避申候、依之、御船ハ傾キ忽立直リ候得共、尚一時間程風力一層相募リ、且漸々風之方位モ相變シ、模様全ク颶風之中點ニ近寄候儀ト推察仕候、爾後風浪ニ漂ヒ、同廿三日ヨリ追追工夫致シ、三角帆其他有合之小帆等修理致シ、同廿四日、廿五日纔ニ船進ヲ得テ、天測之上陸地ヲ表シテ相走リ、同廿六日朝八丈島ヲ遙ニ見出候ニ付、猶方向ヲ定メ相進候處、同夕ヨリ北東風又々暴烈時化模様ニ相成、御船自立不成候得共、同廿八日、漸豆州地ヘ取付キ、同廿九日風様惡敷、下田港ヘ投錨仕、薪水等積入、九月朔日同所出帆、同二日C水湊ヘ著帆投錨仕候、此段申上候、以上。
   九月
    静岡藩記
    三條家叢書
 ○
弊藩軍艦之儀ニ付テハ、先達テ御屆奉申上候趣モ御坐候處、蟠龍丸、咸臨丸之二艘、此程C水湊ヘ著船仕候、尤来意等巨細之儀取調、近々可申越趣ニ御坐候得共、先不取敢此段御屆奉申上候、以上。
            徳川龜之助家来
九月十二日          平岡丹波
               織田和泉
               勝 安房
               山岡鐵太郎
 ○
此程御届申上候軍艦蟠龍咸臨二艘、駿州C水湊へ入津仕候ニ付、右事情承糺トシテ目付役之者共差遣、尚又上陸之儀精々申付候處、何分承服不仕、去ル十一日夜蟠龍艦出帆仕、行衛不相分候得共、追止候艦モ無之、不行届之次第深奉恐入候、咸臨艦之儀ハ尚厳敷申付、軍器等取上ケ、乗組之者共先艦中ニ謹愼爲仕置候趣申越候間、此段不取敢御届申上候、以上。
九月十七日          織田和泉
               山岡鐵太郎
                     静岡藩記

 ○
出羽守領分豆州加茂郡濱村海上ヨリ、去月廿九日朝五ツ時頃、大島沖合ヨリ蒸氣船一艘走寄、右濱村向濱沖合に碇泊、夫ヨリ濱村致上陸候ニ付、村役人其場ヘ罷越様子見請相尋候處、呑水不足相成貰請度旨申聞候ニ付、任其意差遣、乗組之人員等猶様子探索仕候處、徳川家所持蟠龍丸之趣、水主共凡百人程ニ相見候由、其後夕七ツ時頃大島之方ヘ向出帆イタシ候趣、同三十日夕八ツ半時頃、出羽守當時罷在候同州戸田村へ屆出候、然ル處、右船之儀ニ付テハ嚴重之御布告モ有之、彼地ヘ相達候得共、未於彼地謹承以前之儀ニテ、村役人共ニモ注進遅延ニ相成、其上前書之取計仕候次第ニ付、以後之處手當方ハ勿論、領分村役人共ヘモ嚴重申付置、且右之次第小田原御軍監ヘ早速御屆仕候之旨御坐候、依之、御屆申上候様出羽守ヨリ申付越候間、此段申上候、以上。
   九月八日
               水野出羽守家来
               都筑新之丞
                        水野忠敬家記
 ○増田明道復命書
去十四日品川港出帆、同十八日晝四半時頃駿州C水港着、同時即戰争之儀ハ富士艦船將代白尾采女、別紙ヲ以申上候通リ御坐候、扠駿府ヘ少々不審之趣相見候ニ付、彼方重役即刻呼出候書状不相屆前ニ、徳川家来朝倉藤十郎、目附渡邊祐三郎、同夜八字頃右脱艦船將小林文次郎引連、富士艦ヘ参リ候ニ付、右藤十郎其外ヘ尋問之次第左之通ニ御坐候、
尋、右脱艦ヘ乗込参リ候兵隊ハ、何方ヘ趣候哉、
答、凡百二十人程乗込参リ候ヘ共、是又脱走ニヲヨヒ候哉、駿府ヘハ三十人餘召捕置申候、
尋、右艦、何日ニ著船致候哉、
答、當月二日著船致候ニ付、屹度取調ラヘ、當九日鎭將府ヘ御屆申上候、
尋、船内之者ハ、何日ニ御捕ラヘ相成候哉、
答、當十四日小林文次郎壹人召捕、駿府ニテ謹愼爲致、外士官ハ召捕不申候、
尋、第一等士官其外乗込之者共、日々揚陸行水及陸上ニテ酒宴等致候由相聞、右ハ如何之譯ニテ候哉、
答、其等之事毛頭無御坐候、
右ニ付又々押テ篤ト取調候處、少々ハ有之様ニモ申聞候、扨又徳川附屬行速丸船長呼出及尋問候儀、左之通リ、
尋、脱艦之儀ハ如何相成候哉、
答、蟠龍丸、去九日當港出版致、感臨丸同様、二艘共乗込船長ハ勿論、士官等迄艦内ニオイテ酒宴等致候由、相答申候、
尋、右ハ不屆之事ニ付、何レ之心得ニテ及酒宴候哉、
答、是迄同局ヘ罷在候ニ付、人情之不得止所ヨリ言語相接ヘ、酒宴等仕候由、
猶又右藤十郎其外ヘ相尋候ハ、硝石百三十荷、二拾挺入線銃二十箱及大砲二挺、外ニ彈丸等水揚致候由、是又如何譯ニ候哉、
答、漸一昨十七日頃ヨリ段々右之船ヨリ取揚候、徳川土蔵ヘ入込中ニ御坐候、
尋、元来前斷之通揚陸等致候儀ハ、必ス船相損居候ニ付、修理等相加ヘ、又々文次郎其外ハ何方ヘ歟参リ、不正之儀相働候積ニテ可有之、徳川ヨリ召捕候故、大砲其外取揚候儀ニテモ有之間敷、有體之儀申出候様、 答、 決テ其通ニテ無之、只召捕候ニ付、器械等爲取揚儀ニ御坐候、
右尋問相濟、一昨十九日朝八字頃、呼出之重役服部綾雄、目附渡邊堰i堰A前文ニ祐ニ作ル、)三郎、富士山ヘ参リ候ニ付、最前藤十郎申出候次第委細及尋問候、不審之廉々取調ラヘ、左之通リ、
尋、最前申聞候通、必徳川ヨリモ文次郎其外ヘ内通致、船修理爲致不正之儀相働候儀等可有之、然ルニ右等之儀ハ無之哉ニ申聞、若シ其通ニテ候ハヽ、何故脱走兵モ悉ク不捕哉、何故脱艦著御屆延引致シ候哉、扠又何故乗込士官不捕、日々揚陸之上、酒宴爲致候哉、
右之次第、文次郎ヲ猛烈及糺問候ヘ共、何歟ト申紛レ候ニ付、在合之短銃ヲ以、死生不相分迄撲候ヘ共不申出候、右徳川氏重役共更ニ申上候様無之、只々恐入候ト計リ申出候、因テ右文次郎ハ召連歸リ申候、尚委細之儀ハ口上ニテ申上候通ニ御坐候、以上
   九月廿日          増田虎之助
 ○別紙
一昨十八日武蔵丸、飛龍丸、富士艦、類船ニテ駿州C水湊ヘ致著船候、然處、賊船咸臨丸壹艘碇泊イタシ居候ニ付、兩艦共ニ國旗ヲ以發砲之相圖ニ究メ、十一字頃ヨリ兩艘ヨリ五六發位宛致砲撃候處、無間モ賊船ヨリ國旗ヲ卸シ、降伏之體ニ見請候付、止砲、直様武蔵丸、飛龍丸ヲ寄セ付、柳河兵隊乗込ミ、此方ヨリモ士官差遣シ抑鎭相成候、然處、暫間有之、大賊船船將小林文次郎致上陸居候ヲ、徳川龜之助家来朝倉藤十郎當艦ヘ引列来候付、相捕ヘ乗セ付、賊船ヲ挽船ニテ、當湊五字三十分出帆、只今著船仕申候間、此段御屆申上候以上。
 辰九月廿日
                 富士艦船將代
                  白尾采女 
               三條家叢書

○中島佐衡事蹟ニ云、九月徳川脱艦爲追討、駿州C水湊ヘ被遣、賊艦咸臨丸及俘虜ヲ獲テ歸ル。
○増田道明事蹟ニ云、御達ニ付下田港ヘ向、富士艦、武蔵艦、飛龍艦ヲ督シテ出艦、終ニ咸臨丸ヲ討チ、引率シテ東京ヘ歸船ス。
○石井靄吉事蹟ニ云、富士山、武蔵、飛龍ノ三艦ヲ督シ、脱艦咸臨丸ヲC水港ニ討ツ。

 ○

本月十三日、脱艦爲取締、駿州清水港ヘ御軍艦富士山丸、武蔵丸、飛龍丸御差廻ニ付、弊藩兵隊飛龍丸ヘ乗組被 仰付、同十四日大村縫殿一小隊乗組、同十八日清水ヘ入港候處、脱艦咸臨丸碇泊ニ付、則三艦相圖ヲ定メ、賊艦之擧動伺居候内、富士、武蔵之兩艦大砲打掛候ニ付、飛龍丸モ同ク發砲候處、賊艦降旗ヲ揚候間、三艦矢留ヲ令シ、直ニ飛龍丸ヲ賊艦ニ乗付、士官之者、水夫ヲ引率シ乗移候處、賊抜刀及戰接候ニ付、弊藩銃隊、看板上ヨリ均敷連發、賊海中ヘ飛入、或ハ船底ヘ潜匿致候、海中之賊悉弊藩銃隊ヨリ狙撃シ、潜匿之賊ハ乗組一同召捕、同廿三日賊艦引連凱旋仕候、猶委細且分捕等之儀ハ、艦之諸船将ヨリ御屆可申上候間、此段概略御屆申上候、且又賊之士官並水夫討取生捕等、別紙之通御座候、以上
       九月廿七日          柳 河 藩 
 ○別紙
  覚、
 討取 凡二十人餘  生捕士官將 小林文次郎  同 蛯子末次郎
 同  山岩次郎  同     杉浦常五郎  同 袖岡善之丞
 同  小島榮太郎  同     岩田政藏   同 中村市郎兵衛
 同  原秀郎    同     橋専吉   同 野口六右衛門
 生捕水夫二十九人
 以上 
             鎮將府日記
             立花鑑寛家記

○東征總督記ニ云、柳河藩ニテ召捕候脱艦之賊徒共、糺問局牢屋、此節相詰リ居候ニ付、中根作藏糺問局ヘ引合ニ罷越、如何ニモ取始末イタシ、引請可申旨相談候處、牢屋ハ入置候處モ無之候得共、外ヘ差入置、嚴重可致旨挨拶ニ付引取、柳河藩ヨリ右召捕之賊徒、糺問局ヘ引付候事。

 ○駿河藩上申書二通
別紙之通駿河表ヨリ屆出候ニ付、不取締御屆奉上申候、以上。
              徳川龜之助家来
               平岡丹波
               織田和泉
 ○別紙
富士山御船外二艘、昨十八日四半時頃駿州C水港ニ御著帆相成、兼テ謹愼申付置候當家咸臨丸船停泊之場所ヨリ凡十間程隔リ、右御船々ヨリ發砲被致候處、乗組之者共ハ小船ヘ乗込、或ハ入水仕、散亂致シ候者モ有之趣ニテ、船之儀ハ直ニ御引上ケニ相成候旨注進御坐候ニ付、不取敢大目付、目付役々差遣、尚今暁中老服部綾雄並目付兩人罷出御引合申上、不行屆之廉々奉恐入候、上陸散亂仕候者共之儀ハ、猶召捕方四方ヘ差出、嚴重尋方仕候、尤兼テ上陸爲致謹愼申付置候者共之儀ハ、夫々藩士共爲相附置申候、此段不取敢御屆申上候、以上。
   九月十九日
               淺野次郎八
               服部綾雄
               河野左門
               大久保一翁
                       静岡藩記
 ○
此程咸臨船ヘ乗組居候別紙名前之者トモ、府中四ツ足門内元定番屋敷ヘ謹愼爲致、警衛之者付置、屹度取締申付置候旨、駿府表ヨリ申越候間、此段御屆申上候、以上。
              徳川龜之助家来
               小田又藏
   辰九月
 ○別紙
元歩兵指圖役 手島昇介
元同下役   小田切兼五郎  竹内兼三郎
元歩兵嚮導役 中島ラ次郎   内田徳藏   厚澤楠五郎  加茂宮三藏
       武井猪三郎   高橋政太郎  望月安次郎  山縣榮太郎
       佐々木督三   堀内耕之助
 〆拾三名
元騎兵    玉木健     遠藤辨之助  三田村敬四郎
一橋□奥詰 喜三郎事 久保泰輔
元富士見御寶藏 番格 砲兵指圖役並勤方 土肥八十三郎  前野權之進  月田収藏
元砲兵指圖役下役勤方 土肥金藏  元同並勤方  山本半次郎
元砲兵取締  須藤浪江    櫻井荘太郎  森祐左衛門  番場總次郎
元砲兵    淺井彌市郎   岡部鑑吉
元同勤方   武澤市五郎   元砲兵    中島文藏
元砲兵勤方  島野藏三郎  元歩兵指圖役  福島睦次郎
元撤兵指圖役下役  高木文八郎  元撤兵  熊谷小一郎
元同肝煎   宮本梅之助   中川記代之助 山本讃四郎  酒井柳太郎
元砲兵勤方  土屋主税    元支配勘定  金井禎次郎
元御代官手附 中村健五郎  元別手組出役  長谷川頌作
同部屋住   後藤壽太郎
富士見御寶藏 番格 砲兵指圖役並勤方八十三郎厄介兄 土肥荘次郎  同人弟 同 賢吉
元砲兵市五郎弟  武澤長三郎  同  龜太郎
元御賄六尺金八弟  笹間主計  元海軍所同心  長島忠三郎
元海軍所番  小倉喜三郎   中澤正藏   井上忠藏   飯田力藏
 外  家来三人
前野權之進家来  有田松之助  久保泰輔家来  高田竹吉
土肥八十三郎家来  深山梅藏
 〆四拾人
元砲兵指圖役頭取勤方同改役兼勤  水野正太夫
 〆
海兵一等   石原朝之助   芳野兼吉   山田多三郎
同三等    原平三郎    長瀬權平   水夫小頭肝煎 壹人
同小頭 壹人  同格 壹人  水夫 拾八人
              三條家叢書
○以上二通、上申ノ日ヲ佚ス。
○十月二日大總督府達書
                 徳川龜之助
脱走艦咸臨丸乗組之者、不殘駿府城外ニ於テ謹愼申付置候旨承屆候、猶此上 御沙汰有之迄、屹度謹愼申付、取締向不等閑様 御沙汰候事。
   十月
             東征總督記
               鎮將府日誌

 ○附?二條
以愚書奉啓上候、然ハ過日品海發航以來、於半途不慮之天災ニ罹リ御同難之處、基本艦ニハ先以御一同御別條モ無御坐儀ト推考奉賀候、當艦儀不計モ豆州地ニオイテ蟠艦ニ出會、不幸中ノ幸ヲ得、一寸御左右申上候、扠今般同盟之數艦、殆破船之危難ニ逢ハサルハナク、只々仰天伏地號哭之外無御坐候、當船之儀ハ別ニ難破之模様申上候廉モ無之、去二十二日暁四時、囘天曳綱ヲ解放シ候處、終ニ是ヲ取入候暇無御坐、二房之綱ヲ切捨テ、此時コロイフルヤーヘル等ヲ損シ、船向ヲ變ント用意仕候處、中々立廻リ不申、其内諸帆追々損破、船進遂ニ相止、只横波横風ニ撃流シ、且漸々天氣暴荒、晴雨儀七百四十五六線ニ振ルノ頃ハ、全船右傾、常ニ四十餘度ニシテ、尚劇烈之風浪來ル時ハ凡四十七八度、右舷ヨリ海水押入候事數囘、殊ニ御船荷足輕キ方ニ付、乗組之者一同?沒之難ヲ患ヘ、遂ニ大ニ評決、大檣ヲ切斷、一時覆沒之危ヲ避ケ申候、夫ヨリ三十分時ノ間、風力尚相増シ候得共、船傾ハ全ク三十餘度ニ出不申候、夫ヨリ先一同蘇生之思ヒヲ得、暫時互ニ休息、翌廿三日ヨリ追々工夫、スタフ修理、及ヒ傳馬船ノ帆等ヲ用ヒ、廿四日ホツク修理、北西ニ航シ、同日正午實測北緯度ニテ三十四度五十分、東經百四十二度二十五分、ベサーン修理出來、同(此間蓋二十五ノ三字ヲ脱ス)日正午天則北緯三十五度三十六分、東經百四十一度二十五分、夫ヨリ尚北面ニ志シ、翌廿六日朝五時、平潟ト犬吠トノ中央、中ノ港沖ニ至リ、地方ヲ凡四里ノ距離ニ見出シ、夫ヨリウエンデン東南ニ進ミ、約八九日ノ薪水見込モ有之候ニ付、是非共彼地ヘ達航仕度ト憤心振志罷在候處、同夕ヨリ翌廿七日終日、東北風時化模様ニテ、船向不自在、無餘儀南西ニ順航、翌廿八日豆州御藏島沖ニ達シ、爰ニテ兵隊方種々苦論相立、?テ懇願之談事モ有之候ニ付、乗組一同残念難述紙表候ヘ共、空數海上ニテ多人數餓死爲仕候ヨリ、寧ロ一旦駿海ニ至リテ、再謀之策計可仕ト決定、同所ヨリ方向ヲ定メ、終ニ二十九日夕下田港ニ錨シ、同所ニテ蟠龍ノ消息ヲ得、大ニ奮心ヲ増シ、夫ヨリ九月朔日同所出帆、翌二日夕C水港ニ著仕候、尤當艦再發航之期、急速之譯ニハ迚モ参リ不申、去迚幸會之蟠龍ヘ一同乗移、全ク當艦ヲ繋捨、急志立退候モ不盡力、不本意之次第實ニ残念之次第ニ付、蟠龍之船將トモ御相談仕リ、屆キ候丈之盡力工夫ヲ以、一ト先駿府之諸官ヲ爲安心候上、何レニモ假修理相加ヘ、暗ニ再脱之企仕度心底ニ、乗組士官一同決心仕候、尤一圖急志之輩ハ任望、不得止蟠龍艦ヘ爲便船、其餘之者ハ當艦修理之手續爲取掛候積リ、乍去右ハ迚モ急速之發航ニハ参リ不申、時日何レ延引可仕候得共、此段ハ事情御高察可被下候、且陸軍方ハ何レモ矢張良策無之、於當所退艦、且瓦解之趣、誠ニ残念歎息、是迄之辛勞全ク水泡、去迚船之方ニ留置候譯ニモ参リ兼、一ト先沼津邊ヘ潜伏之趣ニ御坐候、當艦事再脱之期、萬一其機會ニ後レ候事等御坐候テハ、乗組之者一同表志之時期有之間敷ト、只々是而已之外掛念ニ御坐候、一同之此切情ハ何分御高察可被成下候、書外蟠龍ヨリ御聞取可被下候、先ハ此段申上度如此御坐候、以上。
 九月七日
                小林文次郎
 澤 太郎左衛門様
 根津勢吉様
 中島三郎助様
                      (三條家叢書)
○海舟日記抄ニ云、九月廿日、去ル十八日C水港ニテ、咸臨船ヘ富士、飛龍其他一隻ニテ發砲、乗組ハ上陸愼中ユヘ應砲無之、官兵船へ乗込旨、長谷川歸リ申聞ル、
廿一日、駿州ヨリ早追ニテ御目付來ル、咸臨船ヲ取卷タル官兵、肥前、土佐、柳河藩士、甚手荒ク、風聞ニテハ春山辨藏刃傷ニ及ヒ、切害ニ逢フ綾雄殿、目付等散々被罵、既ニ害ニ逢ハムトスルノ勢也ト、是去月已來脱艦ヲ差置、御屆モ遲々、亦修覆ニ取掛等、其他種々不都合ヲ御咎メ有之ト云、嗚呼、諸役因循身ヲ不致シテ私營ニ苦、我輩百方之ヲ言フトイヘ共、内破如斯、マタ如何セム。

『薩藩海軍史』

(中公文庫『幕末軍艦咸臨丸(上)』文倉平次郎著・中央公論社発行 444頁〜445頁より抜粋)

 薩藩海軍史には左の如くある
咸臨丸が清水に来りし時には、蟠龍丸も入港して居り、ケートル修復出来せし故、九月十七日出帆した。其翌日富士山、飛龍、加賀の三艦清水に入港して襲撃発砲し、遂に咸臨丸は白旗を掲げた。其始め沼津より申来るには「近日甲州米積取の為蒸気船入津すべし、必ず騒ぎ驚く可ならず」との報に依り、右三艦の来れるは其船なるべしと思ひ大い油断せり。此日船将小林文次郎は上陸して船に在らず、官の軍艦襲来するや、有無の応答なく発砲を始めたり。我艦には砲員配置の暇あらず、端艇を卸し乗組陸地に逃走する者あり、此船の栓を挿すを忘れたる故、忽ち沈没するに至る、依て売船に取付き乗入る。此時長谷川得蔵小銃弾の為に即死す、本船には白旗を掲たる故、敵艦より兵士乗入る、此際歩兵隊並に副船将春山弁蔵等甲板上に在つて乗入る敵を切る、然れども多勢の為に終に討死す。是は初発敵兵乗入る時、弁蔵弟春山鉱平外両三人突然切始めし故、戦闘と成り、弁蔵も余儀なく其場合に到る。其外には曾根量平(ボースマン)は流れ彈に中り死す、其余十人余の討死あり、船将小林文次郎は敵の軍門に出て罪を謝し、其他は皆恭順す。
【ちょこっと解説】
すみません。さすがに『薩藩海軍史』まで持っていないので、孫引きになってしまっております。『薩藩海軍史』に載っているという事なのですが、新政府軍を指して「敵兵」と言っているところから、咸臨丸関係者の記述と思われます。後日、図書館等に出向いて調べてきますので、しばしコレで代用という事で参考アップします。

『幕末軍艦咸臨丸』


(中公文庫『幕末軍艦咸臨丸(上)』文倉平次郎著・中央公論社発行 448頁より抜粋)

春山弁蔵の息子で、後に横須賀造船所の工手より海軍技手となり、後馬公要港部に勤めた春山知安翁は未だ生存して居るので、筆者は翁を訪うてこの時の話を聴いた。
 
私が明治三年清水で咸臨丸殉難者三周忌の法事に、始めて清水に往った時は十一歳で、その時人々の語るを聞覚えで御話すれば、あの時官軍の軍艦が清水の港内に這入るや否や、大砲を打ったとの事で、叔父の春山鉱平は陸軍の士官で海軍の士官では無いが、兄が咸臨丸で脱走すると言うので、それなら自分も往うと、他の脱走組と共に乗込んだとの事です。小銃を打ったのは可成り近距離であって、官軍が乗込むや甲板に出て居った春山兄弟に暴言を吐くので、鉱平は怒って刃を抜き父も加勢して遂に切り合いとなった。水夫等は驚て唯呆然と見て居ったとの事です。士官の人が十二、三人程戦ったが、小銃で狙撃さるるので中には海中へ飛入り遁れんとし、後に殉難者建碑の発起人と為った笹間洗耳の如きは、裸になって泳ぎ着き漸く免れたとの事です。咸臨丸の碇泊せし位置は挿図に在る如く、清水の岸の方に近かった。当時清水に来て居った中島三郎助の妻女の話では、鉱平が怒って刀を抜いた姿がありありと見えたとの事であった。
【ちょこっと解説】
これは、『幕末軍艦咸臨丸』の著者である文倉平次郎が、春山弁蔵の遺族から直接聞き取った内容が語られている部分です。

『咸臨丸艦長小林文次郎より春山の遺族へ送りし詫状』

(中公文庫『幕末軍艦咸臨丸(上)』文倉平次郎著・中央公論社発行 449頁〜452頁より抜粋)

以手紙啓上仕候、然者先般私儀弁蔵様御兄弟と咸臨丸に御同船致し、去る八月二十日暁天品川出帆致し候処、海上に於て大風雨に逢ひ御船既に危く御坐候処、一同覚悟之上帆柱を切り捨漸く危難を遁れ、夫より千辛万苦致し候て無余儀駿州御領海に立戻り、私一身伏罪之上、駿府表に罷越弁蔵様以下弐百余人之無事を哀訴歎願致し居候処、不計も去る九月十八日大総督府より、三艘之軍艦為討手駿州清水港に御差向之上、右咸臨丸に俄に発砲相成、其外私儀者駿府表に罷在右之急変承り及び大に驚入、直様駿城に罷出奉願大小御目付衆と同道之上、右討手之御軍艦に罷越種々弁解、私一身を以謝罪に及び候に付、直様私儀者官軍方にて受取に相成、夫より厳重縄目に掛り東京糺問局に被相送、此程まで同所に入牢罷在、無論死罪と兼て覚悟罷在候処、不計も今般出牢之上御留守居方え引渡相成候に付、右事変之始末参上之上委細申上度奉存候処、出牢後相勝れ不申、乍不本意以書中申上候、定て右事変は世間より御聞及びも被為在日夜深く御心配被成候事と奉厚察候、私儀も前文申上候通り右事変之節船中居合不申、旁弁蔵様には種々船中之御指揮も御配慮被為在候趣之処、何分にも急変之儀御心に不任官軍船よりは頻に発砲致し候に付、其節船内之者一同を御憐み降旗を御引揚げ被成、依之彼方発砲を相止め直に官軍兵卒咸臨丸船内に乗移り候処、弁蔵様御兄弟如何にも御残念之御様子にて、只御両人右兵士と烈敷御戦ひ被成候得共、其内追々咸臨丸船中に多人数官兵乗入り、船中前後左右殆ど混乱致し候に付、外乗組之者も一同只々当惑束手罷在候而已にて更に手術無之、其後は弁蔵様御兄弟如何被成候哉、御様子聢と相分り不申越、尤此騒動中小舟にて陸地え立退候方も余程有之候得共、是迚も今に聢と音づれ相知れ不申御方有之、私儀夫是深く朝暮心配苦慮罷在候、弁蔵様御兄弟船中にての御始末柄、如何にも国士無双之御立派なる事と奉感歎候儀にも御座候得共、右混乱中どうか御怪我等も不被為在に何れへか御立退相成候はゞ宜敷と奉祈念候得共、何分御両公御身之上之処深く心配仕罷在候、右之段疾より為御知申上度奉存候得共、私儀此程まで入牢且右之事変中船内に居合不申事故、更に様子存不申只々空に心配のみ打過、出牢後漸く乗組之衆より粗其時之様子承知仕候に付、驚入不取敢此段御心配之程とは奉存候得共、鳥渡申上置候、猶聢とした様子相分り候はゞ、又々可奉申上候、呉々も深く御心配之御事は御察申上候得共、前文之次第承り込之上は黙止置候も如何に付、此段一寸申上候。已上
 十二月朔日
                小林文次郎
 春山弁蔵様
    御留守居宅え
猶々前文御令弟鉱次郎様御宅えも、御序之節此段可然御話置被下度、誠に意外の事に成行嘸々深く御心配之御事と奉恐察候、御宅も相知れ不申候儘鉱次郎様御方えは、別段不申上候間宜敷御取計被下度候。

『彰義隊戦史』

(『彰義隊戦史』山崎有信著・マツノ書店発行 五九一頁〜六〇三頁より抜粋)

  咸臨丸撃拂の顛末

咸臨丸撃拂事件は彰義隊には何等關係なきが如く見ゆるも、同船には彰義隊士にして乗込み居りたるもの久保喜三郎、前野權之進(利正)金井禎次(敬敏)土肥八十三郎、土肥庄次郎(露八)手島昇助、久保泰輔、酒井柳太郎(三春)其他數名乗船せり、如斯彰義隊士との關係あるを以て、簡單之が事實を記載して以て不朽に傳へんと欲す、而して其の事實は當時該艦長たりし小林文次郎氏(一知)の屆書に明なり依て左に之を掲ぐ、
 
 私儀先般開陽艦に隨ひ恐れ多くも暴動し、品海を退去仕、其上尚今般駿府表にて御不都合を醸し候段私一身の重罪甚以て奉恐入候儀に御座候、就ては糺問所に於て御調相成候處此度罪科赦免被仰付候に付、右始末御屆申上候、
去る八月初旬咸臨丸乗組被申渡同月十日同艦え乗組同二十日暁天品川抜錨第一咸臨丸回天に曳れ、第二千代田は長鯨丸に曳れ。第三三嘉保丸開陽に曳れ、神速丸も同時出船、蟠龍丸は同十九日夕六時頃同所出帆仕候處、廿一日夜より廿二日迄暴風甚敷房州沖に於て終に大檣を切斷辛ふじて覆没の危難を避け、夫より後開陽、回天の兩艦に出會候得共同艦の儀も無難ならず開陽は格別重大なる破損無之様見受けたれども、回天の如きは前檣大檣共是を失ひ申候、各船斯る天災に罹り候も、誠に武運の極まる所にして歎悔の至りに候、且つ災後開陽回天の兩汽艦に再會するも其救助だに得ること難相叶爾後船歩相止み、船向甚自在ならず、殊に薪水漸く缺乏し徒らに海上に漂白して、空しく二百有三十名の人命を亡するに至る事眼前なるを察し、爰に悔悟の念を發し、夫より船の方位を轉じて駿州C水港に志し御膝元に於て謹愼謝罪可仕心組にて、去る九月二日同港に到着仕候に付、御内慮等相伺且哀訴歎願致し、咸臨丸の儀は何卒此上御辨用に備へ度素志に有之、將た乗組一統は格別の御取扱を以て、赦罪被仰付度尤も私一身の儀は假令總督府へ御差出相成候とも、不苦旨赤心をも申上置謹愼伏罪罷在候處、去る九月十八日不圖もC水港え爲御追討富士山艦、飛龍丸、武蔵丸御差向相成突然發砲、私儀は其節御用向有之、府中へ罷越居、右の急變承知仕候に付驚き入り、直様駿城に罷出此段申上候上、大小御目付衆と共にC水港え罷越恭順伏罪仕、私儀富士山艦へ御引渡相成同艦にて一應御調相濟夫より同月十九日夕同港出帆、同二十日右三隻の官船と共に咸臨丸も品川海へ着、同二十三日私を始め乗組の者糺問所へ御引渡相成、翌二十四日同所にて別紙之通り御調の上謹愼被仰付罷在候處、去る十月十五日左之通被仰渡御當家御留守居方吉野庄藏へ御引渡し夫より私從弟總督府附屬平川^太郎へ尚又御引渡相成候に付、爾後謹愼仕、御仕置之程恐待罷在候に御座候
右之通り相違無御座候
  慶應四年十一月            小林文次郎

 別紙(糺問所に於て御調ヶ條)
(問)當春以來御東征被仰出候處其方主人恭順之主意相貫き依之格別重大之御處置を以て徳川家相續被仰付七拾萬石之大禄を新に下し賜り厚き朝恩之程可奉感戴筈之處當六月以來榎本釜次郎事朝恩の程も不相辨殘賊を集め主人の赤意に戻り數艘の軍艦終に脱走致し候儀に立至り候迄之事情其方船將の儀に候得共右の首尾等委細相心得可罷在筈に付其旨有躰可申立、(答)私儀當春富士山艦にて歸東後引續き疫疾相煩ひ引込療養罷在漸く去八月全快仕候折ネ咸臨丸船長岩田平作病氣にて引込み船中差支候由を以て右跡へ船長可相勤旨開陽艦にて被申渡候に付右咸臨丸へ去る八月十日と相覺へ乗組候儀に付六月後よりの情實等更に存知不申亦乗組後に於ても出帆に差迫り東洋へ發航の命を受け候に付私一分にて之を承諾致置品海抜錨開帆迄尚乗組中へは右の段觸れ示し不申何處迄も駿州行の積り申聞置發船後房州沖に至り始て東行の異件一統へ強て説諭仕候儀に有之元より東航之上何等確見有之候儀なるや事實更に存知不申候、(問)咸臨丸へ乗組の儀は何役何の誰より申渡候哉、(答)軍艦頭並澤太郎左衛門より被申渡候、(問)右は陸にて被申渡候哉、(答)陸にて申渡され候儀には無之開陽艦にて澤太郎左衛門より被申渡たる儀に有之候、(問)其許儀委細の情實は不存候旨に候得共八月十日頃乗組の日より出帆の日迄は船中如何なる日課を施し如何なる所業を爲し居りしや、(答)主人手船の内昇平丸と申す運送船有之候處去る八月中朝廷へ御借上げ相成候旨に付同船へ兼て積込有之候該荷物を咸臨丸に積移し可申段被申付候に付右の時日中此事にのみ取掛り罷在候、(問)咸臨丸へは何々を積込候哉委細可申立、(答)前條申上候通りの次第故私儀乗込候節は既に諸荷物も種々詰込有之殊に乗組士官の分も出帆前大概入り狂ひ候に付何々を積込有之候哉聢と相分り不申候、(問)左れば朝日丸、昇平丸兩艘よりは何々を積移し候哉且右積荷大凡何々と申事心得候はゞ可申立(答)右兩艘より移し積み候分聢と覺へ不申大凡は小銃二拾餘箱硝石四百行李餘と相心得申候且其餘の者は備筒の外裸筒五六挺も可有之と相覺へ申候、(問)彈藥は何程貯有之候哉、(答)先乗組船長取計彈藥積込候儀にて積荷目録等も無之に付何程貯へ有之候哉聢と心得不申候、(問)品川海抜錨は幾日の何時なりしや且抜錨の觸れ達は幾日なりしや又何れより出たるや、(答)去る八月二十日暁天抜錨且右の觸達は同十九日夕刻開陽より廻章にて承知致し候、(問)開陽を始め同約を爲して出帆せし船は何々なりしや、(答)約束を爲せし船艘は開陽、回天、蟠龍、千代田並に美嘉保丸、咸臨丸、神速丸の七艘にて有之候、(問)東洋に發航して各船何國へ安碇せんとせしや、(問)咸臨丸の儀は帆前船故回天に曳かれて航行致し自然汽船の護衛を便り居り候儀に付聢と何國に安碇と申す事は承り置き不申候、(問)去乍海上にて萬一難風等の時變有之曳綱を解放され候事無之とも難申其節に至り船將たる者安碇の場所を不相辨候はでは難相叶事に候、(答)如何にも自然右等の時變無之とも難申に付出帆前申合せ置き萬一難航相成候節は奥州寒風澤邊にて待合候積り各船の船長丈にて心得罷在候得共聢と安碇の場所は更に存知不申候、(問)夫より如何の譯にて駿州に罷越候哉、(答)品海出帆後去る八月二十一日夜房州沖に於て時化模様に相成二十二日暁四時頃回天曳綱を解放候節は彌々暴風吹き募り諸帆裂破依之船進相止み動揺次第に強く船具追々缺損同日朝五ツ時後遂に大檣を切斷し漸く覆没の難を避け申候爾後回天開陽の兩船に再び會合せしも遂に其助力を求むることを得ず、同航の各船斯く同難を被ふることは誠に天の然らしむる所にして則ち朝恩を忘れ主家を後にし而して船内のものをして東航を強ひしめ候天罰と爰に始て悔悟候に付船中一統へ相謝し候上船の方向を轉じて一同に駿州を志し乃ち九月二日同國C水港に到着し同所に於て哀訴の上謹愼謝罪罷在候儀に有之候、(問)海軍人員乗組の外に陸軍兵乗組居候趣右は着後如何取計且其人數は何程なりしや、(答)右の者儀は榎本釜次郎申渡し海兵傳或は水兵代りにて爲乗組置候ものゝ儀に付着後當人共の願に任せ退船申渡候儀にて人數は凡百二十人程と存候、(問)夫は駿府表に可罷在哉、(答)如何にも駿府表に於て謹愼罷在候儀と在候乍去其内歩兵なども加入罷在候に付此分は如何相成候哉聢と存知不申候、(問)右の隊長は何と申す者に候哉、(答)隊長と申程の者無之其内重立候者は手島昇助、久保泰輔の兩人位に有之と存候、(問)官船討手に向ひ候節其許は船中にて如何なし居りたるや、(答)其砌私は用向有之駿府表に立越へ罷在官船御差向相成候旨府中にて承知致し驚入直様駿城へ罷出大小目付と共にC水港へ立歸り富士山艦へ罷越恭順伏罪致し同目付より富士山艦長へ私儀は御引渡相成候儀にて咸臨丸船中には其節居合せ不申候、(問)咸臨丸に積込有之候荷物はC水港にて何々を陸上げ致したる哉、(答)着後主人よりも一統へ謹愼申付且諸武器類等も陸上げ申付られ候に付右を取計ひ罷在小銃其外硝石等陸上け候儀に有之候、(問)右陸上げ致したる荷物は其後如何なしたるや、(答)右の荷物は其後如何相成候哉私儀は心得不申候、(問)其許宿所は何處なるや、(答)小石川同心町にて借地住居罷在候、(問)唯今申立候件々聊相違無之哉、(答)聊相違無之候、(問)只今調の廉々猶夫々取調相違無之に於ては是非を取糺し候上大總督府に相伺可申何れ寛大の御處置も可有之に付謹愼可罷在候、(答)可然相願候、(願)わけて歎願致し置き度き儀有之候餘の儀にも無之最初申上げたる通り船中一同のものゝ儀は兼て駿州へ罷越候心得の處房州沖にて初て東航の強命を下し候次第に付實に無心の罪に諂り何共今更氣之毒の事に存候殊更水卒等に至りては輕輩の儀に付情實篤と御賢察被成下私一身は如何程嚴刑に處せられ候共御仕置甘受候に付右申上候者の儀は速に御赦免被仰付候様仕度是のみ譯けて歎願仕候、(應)唯今歎願の趣は承り置く、
右之通り糺問所に於て申開仕候尤咸臨丸C水港に於て官船御發砲之擧動は實に乗組一同驚入殊に急變之場合故船内日記を始め其他乗組人員の名簿其外都て其儘船中に存在の事に候得ばC水港に於て大小御目付衆へ此段申上諸事有躰申立候積り兼て御斷申上置候上右の通り申開き候儀に有之候

咸臨丸副艦長春山辯藏、士官長谷川得藏、准士官長谷川清四郎、春山鑛平、加藤常次郎、今井幾之助の他水兵若干の戰死者に對して、何人も之に對し其の死骸を取纏め埋葬供養を爲すものもなく、將に其の死骸は魚腹に葬られんとせしに爰に東海の侠士山本長五郎なるものあり、自ら進んで其の死骸を揚げ埋葬したり其の事實は東海遊侠傳(一名次郎長物語)にあり、誠に後世の美談とするに足るを以て其の一節を左に掲ぐ、

九月幕府の脱兵咸臨丸(軍艦の名)に乗じ來てC水に泊す、兵士多く上陸し其の留守する者僅に十餘人忽ち官軍兵艦三隻を發し之を灣中に撃つ、留守者奮戰遂に皆斃る官軍之を海に投じ、其の艦を引て去る死屍水面に浮ぶ者累日人之を収むるなし、長五嘆じて曰く、是非は即ち我れ知らず然かも此の輩皆命を國家に致す者なり、如何ぞ之を魚腹にせんと乃ち二三子弟と夜行て之を探り七屍を得たり、腹を屠る者あり、首を失ふ者あり、臂を落す者あり、脛を斷つ者あり皆腐爛敗壞し臭氣咽ぶが如し、長五戴て向島に至り之を古松の下に葬る、此の時に當て徳川旗下の士數百戸新國に移住する者海路C水に至る有司長五に命じ之に炊餉せしむ、長五の脱兵を葬るや頗る物議に渉る、長五之を駁して曰く人の世に處する賊となり敵となる、惡む所唯其の生前の事のみ若し其れ一たび死せば、復何ぞ罪するに足らんや、今官軍戰勝て餘威あり、而して特に敵屍を投棄して去る我れ其の不仁を憾む、腐屍港口にある者數日漁者爲めに業を廢す、我れ其の不幸を憫む不仁の爲めに仁を爲し、不利の爲めに利を計る何爲れぞ嫌疑を避けんと、遂に盛典を設け以て之を供養す、山岡鐵太郎氏之を聞き其の志を嘉し碑面に題して壮士墓と云ふ、且つ別に髑髏を畫き自ら之に賛して曰く、生無一日歡死有萬世名と以て之を賜ふ是より郷士其松を稱して壮士の松と云ふ詩あり證と爲す「砂濶孤松秀空留壮士名、水禽何所恨飛向夕陽鳴、(因に曰く當時受難諸氏供養の事は一切之を庵原郡北矢部村梅陰寺(禪宗臨濟派)に囑して執行せりと)又最初の忌年に際しては長五郎自ら金錢を掛て假橋を巴川に架設し以てC水町と向島との往來を便にし且つ當日僧侶約百人を墓前に聘して爲めに大施餓鬼供養を執行し加之力士數十人を集て最も勇ましき角觝を興行し以て篤く幽魂を慰めたりと云ふ、

以上の如く山本長五郎の義氣に依て僅に其の屍を歛むるを得たりと雖も未だ其の顛末を記して以て之を碑に刻し不朽に傳ふるものなきを遺憾とし、明治十八年十月二十八日榎本武揚、澤太郎左衛門、荒井郁之助、渡邊忻三、蛯子末次郎、千島九一、小林一知、笹間洗耳等發起となり、遂に笹間洗耳を以て發起人總代と爲し、C見寺住職浄見蓉嶺連署の上其の筋へ出願して、建碑の許可を經て遂に明治二十年四月十日竣工を告げ、左の碑表を駿河國庵原郡C見寺境内へ建設せり

  骨枯松秀
王政維新之歳、秋八月徳川旗下諸士隊卒、私有所誓、駕開陽回天咸臨蟠龍千代田長鯨美嘉保~速諸艦、發品川灣赴仙臺到房總海、猝遇颶風各艦離散相失、咸臨艦截其大檣纔免覆没、更案鍼路再圖北駛、而暴風又起漂蕩南洋、艦體毀損不能遠航、遂入駿河C水港御桁解綱、欲略加修理而北、官諜而知之遣富士山武蔵飛龍三艦、來撃發砲甚急、飛龍艦兵執釼銃超入艦中、艦之副長春山辨藏、士官長谷川得藏、准士官長谷川C四郎、春山鑛平、加藤常次郎、今井幾之助及水兵若干格鬪死之、實九月十有八日也。官艦曳咸臨以去、而死屍沿海累日無入敢歛之者、土人山本長五郎侠士也、夜索港中得七屍竊載至向島埋古松樹下、建石表之、題曰壮士墓、今茲舊友相謀建碑於C見寺内、具記其顛末以傳不朽、系之以銘其辭曰、是義人、是頑民、奬曰守節、貶曰吠堯、要之壮士、可以興世風之日澆
 明治十九年三月元老院議官従四位大鳥圭介篆額

  墨水逸士七十一翁永井介堂撰并書、鱸猛麟鐫
著者曰く碑の裏面に食人之食者死人之事、従二位榎本武揚書とあり、而してK水逸士とは幕末有名の永井玄蕃守即ち前元老院權大書記官従五位永井尚志氏にして介堂は氏の號なりと云ふ、

嗚呼咸臨丸戰死者の芳名は興津の古松と共に常磐の色榮え永く朽ることなく死するも尚餘榮ありと云ふへし、

附言、(一)本碑建設并に祭典執行の事に關しては、明治十七年四月初て計畫せし以來、東京に於ては榎本武揚氏を始め澤太郎左衛門、荒井郁之助、渡邊忻三、蛯子末次郎、伴正利、千島九一、小林一知の數氏專ら斡旋し、又静岡に於ては永峰彌吉、笹間洗耳、~尾鋭、又幹事としては蜂屋定憲、梅澤敏の諸氏盡力せし所なり、而して其の費用の如きは舊友相識の義損金に依りしと云ふ、誠に奇特の至りなり、
附言、(二)咸臨丸の官軍より攻撃を受けたる際蛯子末次郎なるもの木椀に火を入れ艦内の火藥庫に放火せんとして、漸く庫の上扉を破壊したれども尚二重の鐵扉を開く能はず、躊躇する内甲板上少しく静りたるが如きを以て、様子を窺はんとして上りたりしに直に捕へられたりと云ふ、嗚呼氏の如きは死を見る歸するが如く豪膽其の身を顧みざるものにあらざるよりは焉んぞ能爰に至らん、盖し三幸翁が官軍を庫中に誘ひ、事顯はるヽに至らば火藥に放火して共に死せんとせしと好一對の美談なり(小林一知の實話)


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