新田義貞の鎌倉攻略戦

分倍河原駅前にある新田義貞像
鎌倉炎上!
「願わくは、内海外海の竜神など八部衆よ、我が忠義に免じて、潮を万里の沖遠くへ退け、道を我が三軍のために開きたまえ!」
まごころをこめてこう祈願すると、みずから差しておられた黄金作りの太刀を抜いて海中へ投じられた。
その夜の月の入方に、これまでまたく潮の退くことなどなかった稲村ヶ崎が急に二十余町にわたって干上り、砂浜が広々と横たわった・・・・・・。
「さあ進め!兵ども!」
六万余騎が一隊となり、稲村ヶ崎の遠干潟を真一文字に駆け通り、鎌倉の町中へ乱入した・・・・・・・。
鎌倉幕府が誇った難攻不落の城塞都市鎌倉が炎に包まれる。猛火のなかから新田勢が乱入して、度を失う敵をここかしこで射倒し斬り伏せ、あるいは組み討って刺し違え、あるいは生け捕って物を奪うなど、さんざんに荒れ狂った。煙にまかれた女子供が、追い立てられて火のなかといわず堀の底といわず逃げ倒れ、さながら阿鼻地獄の様相を呈したという。この新田勢を相手に単身で獅子奮迅の戦いを繰り広げる武将がいた。
「我そこは、桓武天皇第五の皇子葛原親王から五代の孫、平将軍貞盛からは十五代、前相模守高時の管領で、長崎入道円喜の嫡孫、次郎高重である。鎌倉殿の恩顧に報いるためにいま討死するぞ。手柄を立てようと思う者は寄って来い、いざ組み討たん!」
鎧の袖をひきちぎり、草擦もほとんど切り落し、太刀を鞘に納めたまま、大手をひろげてここに駆け合いあそこに駆けちがい、髪ふり乱して敵を蹴散らす。
「敵は大軍をもってすでに鎌倉中の谷々に乱入し、火を放って狼藉を働いております。急ぎお帰りになって、相模守殿に御自害の儀をお勧め申しあげ下さい」
もはやこれまでと見た家臣が高重に近寄って進言する。高重はこれを聞き、敵の追撃を振り切って相模守北条高時のいる東勝寺へと踵を返した・・・・・・。
元弘三年(一三三三)五月、鎌倉陥落・・・・・・ここに鎌倉幕府は滅びた。
『太平記』の一シーンである・・・・・・。
新田氏と鎌倉幕府
新田氏は源義国の長男義重が、上野国新田庄を伝領して成立した。これに対し、足利尊氏の足利氏もまた同じ源義国の次男義康が下野足利庄を得て誕生した家である。源頼朝が挙兵し平氏との戦いが始まった際、次男の義康はいち早く参じたが、義重の方は戦いに背を向けて新田庄の開発とその保全に力を入れて、最初は平家側に味方する。これが鎌倉幕府時代の新田氏冷遇への出発点だった。その後、足利氏は裏の実力者北条家に近づき、姻戚関係を結ぶ。以来、足利氏は代替わりするたびに北条家と政略結婚を重ね、鎌倉幕府内で大きな勢力を築いていった。一方、新田氏の方は没落していく。頼朝が新田氏の女を召そうとするが、新田氏の方が北条政子の嫉妬を買う事を恐れて断った。その結果、北条家との関係も築けず、鎌倉幕府内で冷遇される一要因となっている。鎌倉末期、幕府内で勢力を得た足利が強力な力と権力を持っていたのに対し、新田は小さな御家人という立場であった。今川了俊が書いた『難太平記』に源義家の置文というものがあり「われ亡き跡七代の孫に生れ代って天下を取る」とある。これに該当する人物が足利家時だ。家時は、まだ天下を取る時期ではないとして、自らの命を縮めて三代の後に天下を取らしめ賜えと八幡大菩薩に祈祷し自刃した。その三代目に当たるのが足利尊氏である。この伝説の真偽はともかく、足利一族にこうした天下取りの野心がある事は早くから知られていたようだ。それだけに北条氏もまた足利氏が反乱を起こさぬように積極的に政略結婚を繰り返し、北条氏と足利氏の蜜月の関係が続く事になる。新田氏は幕府内で力を持つ足場を作れず終いとなり、その差が足利尊氏と新田義貞の力の差となっていた。
討幕運動の前兆
鎌倉幕府最後の得宗は北条高時だ。しかし、権勢を握っていたのは得宗家内管領の地位にある長崎円喜(高綱)と息子の長崎高資である。本来なら彼らは北条家家臣に過ぎない。しかし、長く北条家が権力を握った事から、北条家家臣の力が増し、その勢力は幕府御家人を上回るほどになる。彼らを御内人と称し、御家人と御内人は対立していた。安東の反乱では、この御内人の筆頭長崎高資が賄賂を取り、決着を遅らせたといった事が行われて幕府の権威が失墜する。御家人達のこうした不満に付け入ろうとしたのが後醍醐天皇だ。天皇親政を目指し、討幕の密謀がはじまる。正中の変、元弘の変と二度にわたる後醍醐天皇の討幕計画露見事件で、長崎は後醍醐天皇を隠岐へ島流しにして幕府の体面を保った。一方、後醍醐天皇は討幕を諦めず、隠岐から手紙などを出しては討幕の同志を集め始め、討幕の機運が高まっていく。この長崎高資を快く思っていない人物がもう一人いる。誰あろう北条高時その人だ。高時も家臣の長崎から実権を奪いかえそうと長崎暗殺計画を練っている。これは露見してしまい、長崎高資はこの計画に組んだ者を処罰すると共に、主君の高時をも追求する。高時は「関係ない」とシラを切って逃げ切ったが、末期の鎌倉幕府はこうした問題を抱えていた。
足利尊氏挙兵!
こうした鎌倉幕府の衰退と御家人の不満を見切った足利尊氏が討幕挙兵に踏み切った。『太平記』によれば、父死没直後に幕府から命じられた笠置攻めと病の最中であったのにも関わらず命じられた船上山攻めを恨んだとしている。両方とも後醍醐天皇が相手の合戦だ。しかし、一時の感情で長年築き上げた鎌倉幕府内の地位を放棄するとは考えられない。『足利尊氏のすべて』によれば、鎌倉幕府百五十年の間に全国に拡大した一族からの情報により討幕の時機到来と悟ったとしている。元弘三年三月二十七日、足利軍は鎌倉を発ち、四月十六日に京へ到着。その翌日に船上山に籠もる後醍醐天皇に密使を送り、討幕の綸旨を得て五月七日討幕挙兵に踏み切った。そして、京都朝廷を見張る幕府の出先機関六波羅探題を攻撃し壊滅させ、京を鎌倉幕府の支配から解放したのである。
この尊氏の反幕行動は『太平記』によれば、鎌倉幕府の不満から後醍醐天皇側に寝返ったように描かれる。しかし、実際はかなり緻密な計算が行われ、確実な勝機を見いだした上で行動していた。それは自分の息子千寿王の鎌倉脱出からも読み取れる。尊氏が鎌倉を発つ際、幕府は人質として千寿王を取っていた。しかし、千寿王は鎌倉から脱出してしまうのである。この行動は事前に尊氏と示し合わせていたはずであり、尊氏の決心は鎌倉出立以前にはもう定まっていた。足利尊氏の真の目的は、後醍醐天皇の親政政権を打ち立てる事ではなく、武家政権の立て直しにあったと見るべきだろう。御内人に支配された古き鎌倉幕府を捨て、新たな武家政権を立てる。その責務を負うのは、先祖代々「天下を取る宿命を持つ」と言い聞かされてきた足利尊氏自身しかいない。しかし、後醍醐天皇の目的は、武家政権を廃止して天皇親政政権を打ち立てる事だった。武士は天皇や公家の添え物の地位に押さえ込まなければならない。後に南北朝騒乱へ発展してしまう原因がここにある。
新田義貞挙兵!
足利尊氏に続き、新田義貞も挙兵に踏み切る。義貞は謀将楠正成が籠もる千早城攻めに参加していたが、大塔宮の令旨を得て病気と偽って帰国した。元々冷遇されてきた新田一族には鎌倉幕府に刃向かうだけの理由がある。さらに帰国中、鎌倉幕府からの増税要求があり、幕府の役人が横暴に振る舞っていた。新田義貞は、自分の領地で傍若無人に振るまう役人を見て怒りこれを斬ったと『太平記』は語る。これが偶発的であったか否かは解らない。令旨を自ら進んで得たのか、それとも後醍醐天皇側から寝返りを期待して届けられたのかも良く解らない。新田氏は伝統的に保守的であり、足利のように博打を打つ事が少ない事を考えると、令旨を得てしまった義貞が日和見する為に帰国したとも考えられる。『歴史群像50号』の中で、河合敦氏は四月中旬には足利尊氏の挙兵催促が届いていたはずだと語るから、足利尊氏の行動を見た上で、今後の行動を考えようとしたのかも知れない。足利尊氏に比べ新田義貞は野心が薄いように思われ、判断に苦しむ。どちらにせよ賽は投げられた。五月八日、生品神社に一族百五十騎を集め、新田義貞は挙兵する。予想外に挙兵が早まった為、まだ準備が整った訳ではない。義貞は一族の多い越後に行って長期籠城戦を行うか、沼田荘で利根川を楯に戦うという消極策を取ろうとする。まだ兵力が十分ではない新田勢にとって、もっとも堅実な策である。これに反対したのが実弟の脇坂義助だ。挙兵した以上は一気呵成に鎌倉に進撃すべきだと積極進撃を提案した。兵力は追々集まってくる事を期待した賭博的な作戦だが、御家人たちの不満を考慮した勝算ある博打だという判断だろう。新田義貞は、脇坂の積極的な意見を入れ、鎌倉進撃策を取った。
新田勢は直接鎌倉を目指さず、まずは笠懸野方面へ向かっている。そこから中世東山道に入り西進、利根川渡河点の大渡り(前橋)で越後からやってきた先発部隊と合流した。さらに碓井川を渡河し八幡荘に達する。ここで越後の後陣と信濃甲斐の源氏勢力七千余騎が駆け付け総集結が完了、武蔵へ進撃する為の陣容が整えられた。直接鎌倉へ向かわず、西に向かったのは北条得宗家の所領が多い上野に圧力を掛けて、攻めると見せかけつつ自軍兵力の集結する時間を稼いだのだと私は思う。
足利勢、新田勢に合流
翌五月九日、利根川を渡り武蔵国に入る。そして鎌倉を脱出した足利尊氏の嫡子千寿王が、足利家臣紀五左衛門政綱に奉じられ、二百騎の兵力で新田勢に合流した。千寿王はわずか五歳だから、実際には紀五左衛門政綱が指揮していたのだろう。こうして新田足利連合軍となったわけだが、総指揮は新田義貞が握っていたと考えて良い。この千寿王の合流は、鎌倉幕府が予想し得なかった現象を引き起こした。新田義貞の挙兵を知った幕府は、最初は慌てていない。新田が挙兵した所で勢力は小さく、すぐに鎮圧できると高をくくっていたのである。しかし、足利家の反乱は新田とは比べものにならない。足利家は鎌倉幕府時代を通じて特別待遇をしてきた。その結果、北条家に次ぐ勢力を足利氏は持っている。その足利尊氏が京都で反乱し、その嫡子が幼少とはいえ関東で新田軍に加わったという事は、いわば源氏勢力が総反乱したような事態だ。事実、千寿王が加わった新田勢には、上野・下野・上総・常陸・武蔵の関東各地の足利一族と源氏一党が続々と集結を始め、その日の夕方には二十万騎に達したという。この数字は誇張されており、実際には数万程度と河合氏は想定しているが、わずか一日で巨大勢力へ成長した事実は大きい。集まった武士達の多くは、北条得宗家に次ぐ足利の力に期待していた。新田義貞に力を貸しているつもりがなかった事が、新田義貞の計算違いだったと言えるだろう。
新田義貞勢は、足利千寿王の合流で一挙に膨張し、鎌倉を目指し爆進を開始した。対する鎌倉幕府軍は、金沢貞将軍五万と桜田貞国軍五万の総勢十万騎を二手に分けて迎撃の態勢を取る。幕府側は、入間川を防衛線としつつも桜田勢のみで新田軍を撃破できると考えていた。金沢軍は迂回路を通って新田勢の退路を断つ、もしくは新田や足利の根拠地を襲って、新田の逃げ場や体制の立て直しをさせない策かと思われる。しかし、新田勢の進撃速度が速く入間川渡河に成功。十一日、桜田勢と新田勢は小手指ヶ原で遭遇戦に突入した。両軍の戦いは三十度にわたったというから、互角の激闘が演じられたのだろう。この日の戦いでは決着がつかず、新田勢は入間川に、幕府軍は久米川に下がり一夜を明かしている。翌十二日、夜明けと共に新田勢は幕府軍を急襲し、ここに久米川の戦いが始まった。新田軍の急襲を予期していた幕府軍が防禦体制を整えていた事もあり、奇襲的効果はなかったが、勢いに乗る討幕新田勢が押し切り勝ちの勝利を得ている。ただし、新田勢の疲労も激しく追撃は行われなかったようだ。義貞は久米川に留まって兵の休息に務めている。敗北した幕府軍桜田勢は、多摩川分倍河原に退き、急ぎ伝令を鎌倉に送った。この知らせに驚いた幕府は、即座に北条高時の弟左近衛大夫泰家に十万騎をつけて分倍河原へ援軍として送っている。
十五日、分倍河原の決戦が始まった。泰家勢十万騎の到着を知らない新田勢は、力攻めで押し潰そうと襲いかかる。兵力で勝る幕府軍は、この猛攻を押し退けた。苦戦に陥った新田勢は敗走へと追い込まれている。ここで追撃を行えば、新田勢を壊滅できたかもしれないのだが、勝利した幕府軍は油断して追撃を怠ってしまう。敗北を喫した新田勢だが、足利尊氏の六波羅壊滅成功の情報がもたらされた効果もあり、幕府側から新田勢に寝返る者など続々と出て兵が集まっている。その効果か士気が衰えなかった事が幸いであったろう。体制を立て直した新田義貞は、翌日の十六日に再び幕府軍を襲い、第二次分倍河原の戦いを起こす。この戦いでは新田討伐に派遣されていたはずの三浦勢が、新田勢に内通し寝返っていた事が大きい。三浦勢は味方だと思い込んでいた幕府軍の隙に付け入る形で戦闘に突入し、混乱している所を新田勢本隊が襲撃した。幕府軍は大敗北する。こうして新田勢は鎌倉への進撃路を完全に握った。その間にも新田勢に加わる武士が後を絶たず、ついに六十万七千余騎に達したという。一方、別動していた幕府軍金沢勢もまた、武蔵鶴見で新田勢に呼応した小山秀朝、千葉貞胤らと交戦し敗北、鎌倉へ逃げ帰っている。

東村山市にある旧鎌倉街道。この道沿いに新田軍は南下した。

久米川古戦場跡。この場所というよりこの地域全域が戦場であったと思われる。

久米川合戦において、新田義貞公が本陣をおいたとされる八国山に立つ将軍塚。

多摩川防衛ラインの決戦地、分倍河原古戦場跡
超巨大要塞「鎌倉」
新田勢は南下を続け、ついに鎌倉近郊へ達した。しかし、彼らの前に立ち塞がったのは「鎌倉」という名の超巨大要塞である。鎌倉幕府がその威信を賭けて作り上げた難攻不落の城塞都市で、都市そのものが城となっている。鎌倉を取り巻く山脈が天然の城壁となり、都市への入り口は「鎌倉七口」と呼ばれる七つの切通し以外に存在しない。切通しは、道を通す為に山や岩を削り、非常に狭い道の両側が切り立った岩壁や崖になっている。大人数での通行は無理にしてあるのだ。さらに、その周辺には矢を射る場所などを作り、鉄壁の防禦を誇る、いわば鎌倉城の城門である。この切通しの突破無くして鎌倉へ入る事は叶わず、鎌倉は都市全体を城の中に取り込んだ形になっていた。こうした城は中国といった大陸の城に多く、日本では非常に珍しい。戦国期の小田原城ぐらいではないだろうか。
ともかく、この鎌倉七口を守れるか否かで鎌倉の命運が定まる。鎌倉幕府は持てる総力をもって新田勢に相対した。『太平記』によれば、新田勢が三隊に別れて攻めてくると事前に察知し、相模左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将に、軍勢を三つに分けて防戦に当たる策を取る。金沢越後左近太夫将監率いる化粧坂切通し守備隊三万余騎、大仏陸奥守貞直率いる極楽坂切通し守備隊五万余騎を配置、さらに赤橋前相模守守時隊六万余騎が鎌倉を出て洲崎へ向かい、城外部隊となった。平家の末流八十余騎と鎌倉にいた諸国の兵十万余騎を戦術予備隊として鎌倉内に留め、迎撃体制を整えている。
一方、新田義貞勢は大館二郎宗氏を左将軍、江田三郎行義を右将軍とする十万余騎を極楽寺切通し攻略部隊とした。また、堀口三郎貞満を上将軍、大嶋讃岐守守之を副将軍とする十万余騎を巨福呂坂へ向かわせ、新田義貞・義助本隊は五十万七千余騎を率いて化粧坂切通し突破を目指し進軍を開始する事となる。なお、各部隊の大将が全て新田一族で固められているのは、鎌倉攻略の手柄を新田一族に集めようとする配慮であったと河合敦氏は『歴史群像五〇号』の中で説明している。新田勢がここまで大きくなったのは、足利千寿王の合流の影響が大きかった。それだけに、新田勢の大多数が新田よりも足利の為にという風潮があったと想像できる。下手を打つと主将が五歳の足利千寿王で、新田義貞は千寿王を補佐し、代理として指揮を取ったとされかねない。事実、いくつかの史料は新田が足利を助けたとされており、新田義貞と足利尊氏の間で同様の論争が起こっている。この人事は、新田義貞が足利を警戒したものだろう。
鎌倉を死守せよ!
五月十八日早朝、いよいよ鎌倉攻略戦が始まった。まず、洲崎に向かった鎌倉城外部隊六万余騎の赤橋守時勢と堀口貞満率いる新田勢が、小袋坂で激突する。戦いは六十五度も繰り返され、幕府軍は三百余騎にまで減少してもまだ戦い続けるという死闘の様相を呈した。それもそのはず、主将の赤橋守時は撤退する気持ちが微塵もない。実は赤橋流北条守時という名が正しく、当時鎌倉幕府執権という最高位にいた。実権は北条得宗家の高時に握られてはいたが、それでも役職としては征夷大将軍に次ぐ幕府の代表者である。さらに反乱した足利尊氏は、彼にとっては妹婿に当たり、新田義貞と共に攻め寄せた足利尊氏の嫡子千寿王は甥っ子だ。この為、北条得宗家からは赤橋は足利に味方するのではと疑われ、本心から鎌倉幕府に忠義を尽くそうとする彼にとって屈辱的なことだった。彼は、己の死をもって疑いを晴らそうとしていたのである。なおも戦い続ける赤橋勢だったが、すでに疲弊も限界に達しつつあった。それを悟った赤橋守時は、甲冑を脱ぎ捨て腹を十文字に斬って自刃する。赤橋の家臣達九十余人も後を追って次々に自刃し、ここに赤橋勢は壮絶な全滅を遂げた。
新田義貞率いる本隊は、化粧坂切通しに攻め掛かったが守りが堅くなかなか落とせない。そこに極楽寺方面劣勢の知らせが入ってくる。極楽寺切通しの戦いもまた激戦になっていた。ここを守る主将は大仏流北条貞直、攻め掛かった新田勢を率いるのは大館二郎宗氏である。この北条貞直は、かつて笠置で後醍醐天皇を下し、楠正成と戦って赤坂城を落とすといった戦功を立てた。この方面は、一時新田勢が突破する勢いを見せている。それを聞いた貞直家臣本間山城左衛門が駆け付けて反撃に転じた。本間の猛反撃の前に新田勢は苦戦、大館宗氏が討ち取られるという大敗北を喫し、腰越まで軍を引いている。この知らせを聞いた新田義貞は驚き、自ら二万余騎を率いて極楽寺切通しの援軍として駆け付けた。新田義貞が陣頭に立っての攻撃も極楽寺切通しの壁は揺るがない。『太平記』によれば、北は切通しまで山が高く路も嶮しいうえ、木戸を構え楯を垣根のように並べ立て数万の兵が防備についている。南は稲村ヶ崎の浜辺で、波打ち際まで逆茂木を厳重に引きめぐらし、海には大船を並べて船上に櫓を築いて弓兵が待ち構えている。鎌倉幕府はここが主攻正面と見て、さらに増援を送り込んで鉄壁の防禦陣を構築していた。

『大日本戰史(編纂:高柳光壽・発行所:三教書院)』より抜粋

戦国期の城で言えば虎口に当たる。難攻不落を誇った化粧坂切り通し。

新田軍の主攻撃正面の極楽寺坂切り通し。
稲村ヶ崎血戦!
ここで新田義貞は、化粧坂と極楽寺両切通しの突破は不可能と判断したと思われる。そこで攻撃主攻正面を切通しから稲村ヶ崎の浜辺に変更した。嶮しい山道を避け、平坦な海岸線を選択したという事になるが、この海岸は海に遮られて渡れる所は狭い。幕府軍は、そこに逆茂木と軍船で完璧に封鎖していた。『太平記』では、ここで新田義貞が黄金の太刀を海に投げ入れ、神々に祈願すると海の水が引いて広大な浜辺が出現するという本書冒頭の奇蹟が起こったとしている。同様に『梅松論』においても「神仏の加護があって、干潟となった」とあり、それ以外の古文書には記録がない。それゆえ、この部分は創作で実際は干潮時刻を知っている新田義貞が、その時間に合わせて攻めたのだというのが定説だ。その一方で、長く鎌倉に居を構える幕府が、干潮満潮を知らないはずがない、地元の人々も驚くほどの潮の引きがあったはずだという意見もある。地震や地殻変動による一時的な海退説や、この時期が小氷河期気候による海退の著しい時期にあたるといった論文も提出されたようだ。
新田義貞が稲村ヶ崎を撰んだ理由はもう一つある。実は極楽寺切通し攻めと平行して、この方面でも鎌倉突入戦が行われていた。その際、一時は浜辺を突破して鎌倉に侵入した部隊がある。結局幕府側の猛反撃にあって撃退されてしまったが、突破の可能性が示されていたのだ。新田義貞は五月二十日夜半に黄金の太刀を海に投げ入れ、翌二十一日鎌倉突入戦が始まった。
幕府側の決死防戦を振り切り、新田勢は力押しに攻めまくる。狭い隘路での戦いで、犠牲を度外視して突破するまで押し続けるしか手立てはない。そして新田勢はついに突破に成功する。新田勢は、極楽寺切通しに一隊を送りって鎌倉側から攻め掛かった。極楽寺切通しの幕府勢を挟撃して、この方面の開通を狙ったのである。極楽寺を守っていた大仏貞直勢は退路を遮断され完全包囲に陥った。その中で、猛反撃に出た武将がいる。長崎三郎左衛門入道思元と息子勘解由左衛門為基だ。彼らは率いる七千余騎を極楽寺切通し防衛に貼り付けつつ、その中から精兵六百余騎を選び精鋭部隊を作る。これを率いて、挟撃を仕掛ける新田勢に対し突撃を敢行した。『太平記』では全滅覚悟で戦い抜き、為基などは由比ヶ浜の大鳥居の前に仁王立ちとなって新田軍の侵攻を決死防戦したという。由比ヶ浜の戦いは血みどろの激闘となった。一騎当千の活躍を見せる為基だが、その後消息を絶って生死不明と『太平記』に記されている。一説によれば長崎為基はこの激戦を切り抜け、九州へ落ち延びたという。その場所が長崎県であり、長崎の名が地名になっていると言われる。また一説には、長崎に彼らの所領があった事に由来するとも。
長崎父子の攻撃も新田勢を押し止めるには至らず、ついに極楽寺切通しと鎌倉との連絡線は回復しなかった。守備大将大仏貞直は、猛火に包まれる鎌倉を目にし、もはやこれまでと兵を集め、雲霞の如く攻め掛かる新田軍脇屋義助勢へ最後の突撃を敢行、玉砕討ち死にする。ここに極楽寺切通しが陥落し、鎌倉への道が打通した。

稲村ヶ崎古戦場跡。切り通し攻略に失敗した新田軍は、ここを突破口にした。
鎌倉陥落
新田軍の鎌倉突入の報を受け、得宗北条高時は館を出て東勝寺に移っていた。金沢流北条貞将は、山内の戦いで新田勢と激突し、全身に七カ所の怪我を追って決死の防戦をしていたが敗れて東勝寺に帰り着く。高時は彼の生還を喜び、彼が長年臨んでいた両探題職に任じたという。むろん鎌倉幕府が滅びつつある事は誰もが知っている。空手形ではあったが、彼は最後に長年の夢がかなったと喜んだ。貞将は、残された力を振り絞って敵軍の中に斬り込み、そのまま消息を絶つ。新田勢に襲い掛かった猛将がもう一人いる。専横を極めた御内人筆頭の長崎一族の高重だ。彼は鎌倉内に温存していた予備兵力を用いて、進入してきた新田勢に襲い掛かる。馬が疲れ切れば馬を取り替え、太刀が折れれば太刀を取り替えて獅子奮迅の戦いを続けるが、もはや如何ともし難い状況に陥った。高重は一旦東勝寺に戻り、高時に会い「もはやこれまで、しかし私が戻るまで自害なさらぬように」と進言する。高重は最後の賭けに出た。残された手勢百五十騎を率い、笠印を捨てて敵軍の中に紛れ込んで敵本隊に近づき、主将新田義貞を討ち取ろうという算段なのだ。しかし、あと半町という距離まで近づいていながら見破られてしまい、大軍に包囲されるも猛反撃に出て戦場を駆け回った。逆に小勢であったのが良かったのか新田勢は混乱に陥って同士討ちを始めてしまう。しかし、そこまでだった。所詮は多勢に無勢である。せめて良き敵と刃をかわして討ち死にしようと高らかに己が名を叫ぶ長崎高重だが、家臣に「はやく東勝寺に戻って、相模守(北条高時)に自害の儀を」と説得され、敵陣を切り抜けて東勝寺へと帰還を果たしている。
東勝寺に駆け戻った長崎高重は、北条高時に自害を勧め、まずは己が手本をと切腹して果てた。彼に続き、長崎一族の長崎円喜(高綱)、長崎高資らと共に最後の得宗北条高時も自刃する。北条一門総勢二百八十三人が次々に後を追い、東勝寺に火を放つ。ここに北条得宗家は滅び、鎌倉幕府は滅亡した。

鎌倉の象徴・鎌倉八幡宮
そしてすべてが始まった……
鎌倉幕府が滅亡し、これですべてが終わった訳ではない。むしろここからが、南北朝という大騒乱時代の幕開けとなる。足利も新田も臨む事は一つ、新たな武家政権だ。幕府を倒した一番手柄は新田義貞にある。しかし、この新田軍の中には足利千寿王がいた。新田・足利連合軍が幕府を倒したのであり、新田一人手柄ではないというスタンスを足利側は取る。ましてや新田よりも足利を頼りに新田軍に加わった武士が圧倒的多数だった。わずか五歳の足利千寿王の威勢は、新田義貞を凌ぐ勢いとなる。なかには足利と新田双方に戦功報告を行い、双方から軍忠状を得て両天秤にかけるという裏技まで用いた武士まで出る始末だ。足利尊氏は、京都六波羅両探題を滅ぼし、京都を解放したという手柄をすでに持っており、その上息子の千寿王が尊氏の名代となっているから、尊氏は京都解放と鎌倉攻略の二つの手柄を手に入れたようなものである。官位においても、無位無冠の新田に対し、北条家から優遇されてきた尊氏は従五位上前治部大輔だった。尊氏は、細川和氏・頼春・師氏を鎌倉に下向させ鎌倉支配体制の確立を図る。鎌倉の支配権を持つものが、時期武家政権を担う者となる。これは新田義貞を牽制し、時期武家政権の担い者にさせない為の策だったろう。一方、義貞は勝長寿院に本陣を構え、鎌倉に潜伏している残党狩りを行いつつ、鎌倉支配権の確立に務めた。当然、足利側との軋轢が高まる。一時は合戦すら想定される事態になったが、六月に入ると新田義貞は戦いを避け、足利に譲歩する形で上洛の途についた。こうして鎌倉は完全に足利の支配下に入る。鎌倉攻略の恩恵は足利尊氏に帰してしまったのだ。こうして新たなる武家政権の建設に突き進む足利尊氏だが、御醍醐天皇の方は建武親政を目指し、権力を武家に与えるつもりは毛頭無い。これより後、天皇親政を目指す後醍醐天皇と新生武家政権を目指す足利尊氏の日本全土を巻き込んだ戦いが始まる。 日本の歴史の中で、鎌倉時代と呼ばれた時代が終わる。鎌倉幕府という古き秩序が消えた時、それに変わる新しき秩序が未確定だった事が、時代を迷走させる事につながったのだろう。この後、時代は南北朝という大騒乱時代に入っていく。新田義貞は、後醍醐天皇の元で足利尊氏最大のライバルと目され、南北朝騒乱という歴史の激流の中で戦い続けていく事になる。
(文責:幕末ヤ撃団 梅原義明)
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