会津戦争紀行

会津戦争が起こるまで

 2008年5月10〜11日にかけて、日本史探偵団の仲間たちで、会津戦争の激戦地を見て回ってきた。これはその時の簡単なレポートである。

 まず、会津戦争とは何か?。これは明治新政府が旧幕派である会津藩を討伐しようとした為に起こった戦争だ。「会津藩は無理矢理薩長に戦争を仕掛けられた」と信じている人も多いだろう。だが、実際には逆で会津藩の方から戦争を仕掛けている。まず、この点を少し説明しておこう。
 戊辰戦争は鳥羽伏見の戦いが起こった事ではじまる。江戸で薩摩の挑発があったとはいえ、これに反応し武力を用いたのは旧幕軍の徳川家、会津藩桑名藩などであった。これに対して、薩長は京都防衛の大義名分の為に応じ戦争が発生した。つまり先に武力を用いて戦争を仕掛けたのは会津藩をはじめとする旧幕府側である。むろん、薩摩がまったくの無実というわけではないが。ともかくこれにより会津藩は「賊軍」とされた。
 さらに時は流れ、会津征討の為に奥羽鎮撫総督府が仙台に派遣される。会津藩は戦争となる事を予想し、洋銃を輸入。さらに軍政改革を行って武備を調える事に血眼になった。「会津は何一つ間違った事はしていない。謝罪の必要はない」といった雰囲気の会津藩であったが、先にも述べた通り「薩摩の謀略があったとはいえ、先に武力を用いたのは会津側」である。この点において会津の罪は逃れられない。とはいえ、この問題は「有罪無罪」という簡単な話しではなく政略も絡んでいる。会津藩側は太政官に対し、「徳川家の処分が決定を見るまでは謝罪しない」と答えていた。会津の武力を徳川家救済の為のブラフとしたのだ。会津藩が納得できる徳川家処分を決定しなければ、会津は徹底抗戦する。そういう意味だっただろう。これが裏目に出る。会津藩が武力的恫喝を行う必要もなく、明治政府は大鳥脱走軍や千葉の徳川義軍府といった徳川脱走兵団に四苦八苦であった。こうした事情から明治政府は徳川家の存続を決め、駿河七十万石と決定する。
 一方、奥羽では会津藩が条件付きで謝罪拒否した為、会津へ武力侵攻する必要に迫られた。仙台と米沢が仲裁に入り、なんとか会津藩を恭順させるべく交渉が何度が行われる。ある程度の譲歩を会津から引き出した仙台米沢両藩は、白石会議を開き奥羽諸藩の総意という形で、奥羽鎮撫使総督九条道孝に差し出す。公家である九条は、これを受け取り「独断では決められないので、参謀に相談する。」と答え、四〜五日後に正式に回答すると答えた。相談を受けたのは世良修蔵だ。世良は会津征討主戦派であり、この歎願を却下する。会津藩は武装を調えたり、徳川脱走軍と連携を取るなどとても恭順しようとする態度ではなく、世良はこれを会津の時間稼ぎと見た。待てば待つほど会津の武装は協力となる。一刻も早く征討しなければ、やっかいだと思ったのだろう。世良はさらに厳しく仙台に会津征討を行うように命じる一方、非戦論を説き続ける仙台がアテにならないと援軍を要請し、奥羽諸藩を恫喝できるだけの武力を揃えようととする。歎願を拒絶され、また世良の追加援軍を呼び寄せる考えがある事を世良の手紙を盗み見て知った仙台米沢両藩は激怒。主戦派の世良を殺さなければ戦争回避などできないとして、世良の暗殺を実行する。
 ここまでは良いとしても、仙台米沢は世良を除いた後、京都の明治政府や江戸の大総督府に会津救済を歎願しておらず、戦争回避の為に世良を取り除くという大義名分は何であったのか良く解らないものとなってしまっている。
 さらに世良を暗殺した翌日には、大鳥圭介、山川大蔵の旧幕会津連合軍が今市に侵攻。土佐の板垣退助部隊と激突。白河方面でも会津軍が白河城を攻略占領に成功する。白河は戊辰戦争直前は徳川家の直接支配地域であり、太政官の命令で朝廷管轄地域とされていた。世良の暗殺と会津藩の今市白河への侵攻がほぼ同時に行われ、白河は会津藩の支配する所となる。つまり、この場合も朝廷の領地を会津が武力で奪った形となってしまっていた。しかも朝廷より派遣された世良も殺されている。明治政府としては、もはや会津藩は必ず討伐しなければならぬものとなり、急遽江戸総攻撃の為に編成された政府軍を再編成、会津征伐の兵力として次々に派遣をはじめたのである。
 これらを時系列として見ればわかるが、やはり世良に多分に問題があるにせよ、先に武力を用いて戦争を仕掛けているのは会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟側である。これにより会津戦争が起こったのだから、「会津戦争は会津藩側から仕掛けた」というのが真相だ。こう書くと「でも結局、世良がいる限りは戦争になった」という人もいるかもしれない。確かにそうだったかもしれないが、「本当に世良がいると戦争になったかどうか」など誰にもわからない。殺してしまったのだからそれは「仮説」でしかなく、事実としては「会津藩側から会津戦争が起こされた」と言うべきだ。もちろん、会津藩が戦争を起こした原因は、長州人の世良にあったと言えるから全部会津が悪いのだという事にはならない。

ともかくこうして会津戦争は起こってしまった。
 


 最初に到着したのは母成峠だ。大鳥圭介率いる旧幕脱走軍が総力をあげて守った場所である。大鳥はこの峠に三段の陣地を構築し、縦深防御という新戦術で戦った。碑がある場所は峠のもっとも高い位置で、第三陣地のあった場所と思われる。


峠から二本松方面を見下ろしてみる。母成峠は、峠とは言うものの広い盆地状で戦場として見た場合にかなり広い。大鳥は母成峠を見て、ここを守る為には大兵力が必要と言って日光方面から伝習隊を引き抜いて守りを固めた。


 母成峠の戦いで戦死した人々の慰霊碑。横には農民たちが放置されていた戦死者を集め埋葬した墓が作られていた。会津藩士の戦死者が明治政府の命令で埋葬を禁止されたという事実はなく、多分に勘違いでそう伝えられたものである。死体放置問題に関しては、大山格ホームページに詳しい事が書かれているので、そちらを参照して欲しい。

会津藩戦死者の遺体は何故埋葬されなかったのか?




母成峠にある第一陣地の塹壕跡。石を積んだ強固な防御陣地が作られていた。

 第一陣地跡を横から見る。大鳥の三段陣地の縦深防御という新戦術に対し、新政府軍大山弥助(巌)は、大砲集中運用という新戦術で答え、この第一陣地に砲弾の雨を降らせる。第一陣地の会津旧幕府軍はたまらず第二陣地に退き、第二陣地で激しく抵抗を行った。新選組の土方歳三も第二陣地付近で激闘を演じている。新政府軍は側面攻撃で敵の防御を突き崩し、会津藩兵が壊乱を始めてしまう。第三陣地に退いて抗戦を試みようとする大鳥だが、会津兵の士気は崩壊は止められず、第三陣地後方の陣屋に味方であるはずの会津兵が火を放ってしまう。敗北したら防御施設を敵に使われないように火を放つのは常道だが、まだ第三陣地が残っているのに会津兵は早々と火を放ってしまった為、旧幕府歩兵も浮き足立ってしまう。ついには大壊乱を起こして敗北した。

 石積みを間近で見るとこんな感じだ。城の石垣とは違い、急造構築した為に荒く築かれている事がわかる。

 ちょっと距離をとって眺めてみる。かなり長い防御壁となっている。

 ちょっと見にくいかも知れないが、写真中央部分にある地面が岡状(マウント)になっており、これも人為的に作られたものと推測される。このマウントは石積みの横にあり、防御施設の一つだろう。

 母成峠を会津方面に下ると、猪苗代湖が見えてくる。これは車内から撮影した一枚。近くには猪苗代城がある。ここで防戦も行えたはずだが、士気崩壊した会津兵が火を放って会津へと後退してしまい、結局猪苗代城は何の役にも立たず無意味に消失落城した。

 会津藩の最終防衛線十六橋の現在の姿。明治政府の進撃は早く、会津藩はこの橋の破壊に失敗してしまう。その結果、十六橋は新政府軍が確保し易々と突破に成功してしまった。

 これも十六橋。この橋を渡られると、あとは会津城下まで防御に適した地形がほとんど無い。唯一滝沢峠がある程度だが、さほどの障害地形でもないから、ここを突破された時点で会津藩の運命はほぼ定まったと言って良いだろう。

 十六橋のすぐ横にある水門を撮影した一枚。橋を奪われ、日橋川の防衛に失敗した会津藩にもはや打つべき手立てはなかった。

 戸の口原の戦場はこのような平野である。地形の凹凸は少なく、防御に適さない。しかも兵力も少なすぎてとても守れない事も明白であったろう。だが、ここで時間稼ぎを行って籠城の準備を行う他に会津軍の為すべき事がない。

 戸の口原の防御兵力として、急遽派遣されたのが白虎隊士中二番隊である。滝沢本陣で陣頭指揮にあたる藩主松平容保の護衛隊であった白虎隊は、戸の口原に派遣すべき部隊が無かった事から急遽実戦部隊として派遣された。したがって、白虎隊に与えられた使命は敵の攻撃に耐え忍び、一刻でも時間を稼いで戦い続ける事であり、決戦を行って敵軍を撃破される事は期待されていなかったはずである。塹壕に身を潜めた敵を倒す事は、最新鋭の武器を持つ薩長兵にとっても易々とはいかない。一分一秒でも時間を稼げば、他の方面にいる会津正規藩兵が駆けつけてくる。だが、こうした事は実戦慣れした指揮官や、軍学をキチンと習った者にしかできない発想だったかもしれない。不幸にも血気盛んな少年達の近くにこうした指揮官が居なかった事は悲劇であったろう。

 白虎隊が身を潜めたであろう笹藪である。隊長日向内記は、白虎隊に塹壕を掘らせると、彼らにその塹壕に張り付いている事を命じ、自らは食料調達の為に城下へ戻っていた。待てども待てども戻らぬ隊長に業を煮やした少年達は日向隊長の待機命令を破り、自ら敵を求めて前進してしまった。結局、新政府軍に決戦を挑み敗北。壊乱して逃げる事となる。そして運命の飯盛山へとたどり着く事になるのだ。  なぜ日向隊長が戻らなかったのか?。日向内記はその後何も語ってはいない。「敗軍の将、兵を語らず」何を言っても良いわけにしかならない。私は何も語らない日向の態度の中に「将」の姿を見るが、皆さんはどうだろうか?。あえて彼の弁護をするならば、白虎隊は緊急配備された部隊であり、その後の軍事行動など何の指示も受けていない。会津籠城戦の方針も定まらぬままの混乱状態に突入しているのであり、高禄大身の家老の息子を多数預かる白虎隊隊長としては、このあたりをキチンと決める必要に迫られたのかもしれない。城に隊長自らが帰ったからには、こうした軍議への参加、意見具申もしたかったのではないだろうか。食料調達のみの為に帰ったとは、私には思えないのである。日向は宇都宮城攻防戦の際には、大鳥圭介の要請を受け、土方歳三らと共に戦った実戦経験者だ(よく大鳥の要請を断り、宇都宮攻防戦に参加しなかったと言われるがこれは嘘である。凌霜隊の記録『心苦雑記』には、日向隊と宇都宮城で戦ったという記述があり、大鳥圭介が書いた『南柯紀行』にも会津軍の援軍があった事が書かれている。この時に会津軍を指揮していた人物は日向しかいない。)。少なくとも良く言われる「臆病だから戦から逃げた」訳ではない。

 古戦場巡りをしている内に時間も過ぎて、急ぎ本日の宿屋「大内宿」へと向かう。今回は「会津城下は後日、電車で行けば見れる。今回はレンタカーで行くしかない所を見よう」という事で、鶴ヶ城や飯盛山などはスルーした。とはいえ白虎隊士酒井峰治の書いた『戊辰戦争実歴談』は欲しかったので、友人達を説得し飯盛山へと立ち寄って貰う。駆け足で階段を駆け上り、白虎隊記念館に拝観料を払うと一目散に史料をげっっちゅ!そのまま「何も見ずに」記念館を出た。実に入ってから出るまで一分以内という素晴らしさである。白虎隊ファンから白い目で見られそうだが、時間がないので仕方がない。あ、一応おみやげ物屋には入ったぞ。「おっちゃん!トイレどこ?」。用がすんだら一目散に飯盛山を駆け下った。  そんなこんなで会津若松を後にして、大内宿へ到着する。

 大内宿は昔の景観を守って今に伝える貴重な町だ。茅葺きの家が建ち並ぶ姿は壮観である。今夜はこの内の一軒に宿を借りて宿泊した。

 大内宿を高いところから見下ろす。中央に旧街道が走り、その両側に宿屋が立ち並ぶ宿場の王道がそこにある。その外側には田畑が連なり、古き良き日本の里の姿がそこにあった。実に良い所だ。

 大内宿にある本陣跡。大名行列などの際に宿泊する施設である。建てられていた解説によれば、初代会津藩主保科正之をはじめとして、歴代の会津藩主が昼食をここで取ったという。残念な事に大内宿は戊辰戦争の際に、明治新政府と会津軍の両軍の放火などの戦災により大きな被害を追い、貴重な記録類も焼失してしまったという。この陣屋も他の宿場にあったものを参考に復元したもので、本来の姿がどうなっていなのか、今となってはわからない。

 夕飯の際に囲炉裏で焼かれるイワナ。いやもう最高である。私はアユやニジマスを食べた事があるが、イワナは初めてだ。ちょっと感動して一枚写す。

 焼かれたイワナは、こんな形で夕飯の一皿となった。イワナうまー!。で、思わず写真を撮る事も忘れてかぶりついてしまった。この一枚は友人が箸を付ける前に「写させろ!」と横からシャシャリ出て撮影したもので、友人に出された料理である。

 宿場にはツバメが巣を作り、子育てをしている。かなり近づいて撮影したのにも関わらず、逃げもしないツバメ。聞けば、ここに住む人の家には、なにかしろ住んでいるのだという。ツバメ意外に何が住んでいるのか気になる・・・。た、たぬきとか??。まさかなぁ・・・。

 道の両端にある水路。単なる側溝ではなく、生活に密着した水路である事がわかる水場だ。この写真は水路で洗い物をしたりする為に段を付けた部分かと思われる。琵琶湖水系の集落は、こうした水場を家の中に引き込み活用している姿をTVで見たことがある。大石宿のおっちゃんが、水道ではなくこの水で歯磨きしている姿には感動を覚えた。東京ではちょっとできない。

 宿場のもっとも奥にあり、さらにその先大内峠に通じると思われる小道。戊辰戦争では、この大内宿も戦場となり、明治政府会津両軍の争奪戦が行われた。大内を確保した明治政府日光口軍は、大内峠に向け進軍していった。この大内峠の一キロ先には火玉峠(現在は氷玉峠)があり、二つの峠が連続する最大の難所となっている。会津軍もここを越えられると会津城下まで雪崩れ込まれる恐れがあり、城下から増援を差し向けて徹底防戦に出た。両軍ともこの二つの峠を巡り、日光街道最大級の激戦地となっている。白河方面の最大の防衛線が母成峠ならば、日光街道方面の最大の防衛線は、この大内峠火玉峠だ。母成峠が非常に広く盆地状であったのに対し、こちらは狭隘路で少人数で守りやすい。しかもここにはスペンサー七連発銃を標準装備する凌霜隊が守っていた。群上藩の会津救援部隊だ。その火力は凄まじく、少数ながら薩摩の吶喊突撃を阻止し、四時間以上も釘付けにして一歩も進ませないという戦いを演じた。狭隘路で回り道が無く、薩摩兵は正面突撃しか手が無い。犠牲ばかりを増やしている。日光軍の指揮官は人斬り半次郎こと中村半次郎である。会津の佐川官兵衛と同じ猛将だが、佐川同様少々芸が無く、正面突撃ばかりを繰り返している。芸州藩兵は、ラチが明かないと判断し、道のない山中に入っていった。道のない山の中を無理矢理進み、大内峠を避けて山越え、その背後に出て会津の拠点を襲撃するという手に出る。これにより、敵が後方に回り込んだ事を知った会津軍が後退し、明治新政府はようやく大内峠を占領できたのである。だが、その先には火玉峠があった。こちらも大内峠と同じ狭隘路の狭い峠であり、大内峠同様の大難戦となっている。

 大内宿の近くに流れる小川。里山の情緒あふれる風情の酔いしれてしまう。たまらんのう〜♪。

 会津田島の市街地。今度は会津から宇都宮に向かっているので、明治政府の侵攻ルートを逆走する形になった。佐川官兵衛が跳梁跋扈した会津城外部隊の拠点となった町だ。

 五十里湖だ。綺麗な湖面であるな。

 これも同じ五十里湖である。

 小原村の戦いの戦場となった場所がここ。何故かは解らないが城の壁のようなものがある。観光の為に作ったものだろうか?。史跡ではないので要注意であるが、目印にはなる。

 戊辰戦争両軍の慰霊碑がある。ここは今市の明治政府軍(土佐の板垣退助指揮)と旧幕会津連合軍(総督大鳥圭介、副総督山川大蔵)が長期戦を行った際に旧幕会津連合軍の拠点となった大原・藤原側になる。山川や大鳥がそれぞれ鶴ヶ城と母成峠に向かった後は、残存会津軍がここを防衛拠点とし、今市の明治政府軍の佐賀藩兵と泥沼の長期戦を戦った。

 小原の戦いに使用された旧幕会津連合軍の塹壕跡。現在でも形が良く解る。こうした塹壕が斜面に何段にも重ねられていた。凄い!。

 塹壕跡を横から撮影。塹壕が何段にも重ねられて作られている事がわかる。

 今度は塹壕跡を上の方から撮影。塹壕が段々畑のようになっている。

 敵兵が斜面に取り付いた際に、横への移動を阻止する縦掘りまで備える緻密さで陣地が作られている。

 なんと一人用の塹壕(当時にこんな言葉は使われていないが、簡単に言えば「タコツボ」塹壕だ。)まである。少々見にくいが、地面を深く掘ってある。

 掘ったときに出た土は前に積み、胸壁としている。写真中央が岡のようになっている所が胸壁だ。

 別の角度から塹壕の穴を撮影。穴は深く人一人がすっぽり納まる。座れば完全に身を隠す事ができる。

 この塹壕跡は、写真の右側の林の中にある。

 塹壕のある林の先に、川を挟んでさっきの城壁のような白壁がある。その下に道があり、この道を明治政府軍が攻め上ってくる形だ。塹壕のある斜面からはそれが丸見えとなり撃ち放題にで攻撃できる絶好の位置に塹壕が作られていた。ガイドブックや案内看板などまったくなく、当初「また塹壕探しで藪の中に入るのか・・・」と気が滅入りそうだったが、この時は我がお師匠様がニュータイプ能力で「ピキーン!」と来たようで、「見える・・・わしには見える・・・」とまわりの風景を見ただけで塹壕の位置を言い当ててしまった。攻めてくる敵をもっとも迎撃しやすい場所は・・・と考えた結果だそうである。本や案内板をアテにしてしまう自分にちょっと反省・・・。

 大原・藤原を後にし、今度は明治政府軍が拠点とした今市に入る。今市は土佐板垣退助部隊と旧幕会津連合軍が大決戦した場所である。その後は山川大蔵が会津猟師隊を使ってゲリラ戦を展開し、明治政府軍を悩ませた。その会津猟師隊が布陣したという茶臼山を今市から眺める。

 現在の今市市街だ。今市は日光、会津へ向かう会津西街道と宇都宮へ向かう街道が交差する交通の要衝である。戊辰戦争の激戦地の一つとして数えられている。

 今市市街にある会津西街道の旧道交差点。この道をまっすぐ進むと大内宿へと通じる・・・と言いたいが、現在は旧道だけに分断されて途中で途絶えているみたい。

 こちらは例幣使旧街道への分岐点。

 今市と日光の間にある日光街道杉並木。日光街道沿いに戦いが行われており、このあたりの杉の何本かには戊辰戦争時の弾痕がある。

 立派な杉の木でございます。

 日光街道は、徳川歴代将軍の霊廟として有名な東照宮のある所。大鳥圭介の脱走軍も最大拠点として日光に向かっていたが、ここで謹慎していた板倉勝清が「日光を戦場にするなど恐れ多い!」と大反対した。明治政府の方でも日光を戦場にするのは避けようと板垣退助が動き、この結果、日光大戦争は回避される。その功績で日光には板垣退助の銅像が建っている・・・・ああ・・・・板倉さん可哀想(←ちと知名度が足りなかったらしい)・・・・。

 戊辰戦争とまったく関係ないが黒衣の宰相と言われた天海大僧正の銅像もある。そりゃあるわな(笑)。日光東照宮作った人だし。私は静岡県出身であり、久能山東照宮にはなんどか足を運んでいる。日光東照宮になんとなく故郷の香りを感じる。でも時間が無いので、結局東照宮は参拝しなかったんだけどね(苦笑)。

 こうして一泊二日の会津戦争レンタカー紀行をしてきた。車がないと行けない所を中心に見て廻ってきたのだが、はやり「戦場を実地で見る」というのは重要な事であると実感するばかりだ。会津戦争の塹壕跡は最近でも発見が相次いでいるようで、史跡登録もされていないようだ。がんばって探せば、まだまだ見つかるかもしれない。興味のある人は探してみたらどうだろうか?。
ちょっとここまで塹壕をいろいろ見ていると、過去に見てまだ紹介していない塹壕も紹介したくなったので紹介しちゃいます。それは会津大峠にある塹壕跡です。

 これが大峠にある塹壕跡。十数年前に行った際に使い捨てカメラで撮影したものをデジタル化しています。ずーっと続くラインが塹壕。ここを見るのはかなり大変で、ほとんど登山をするつもりで丸一日掛けないと見れない。

 大峠の会津軍塹壕跡は会津田島側と三斗小屋方向から登る方法がある。この写真は三斗小屋温泉の温泉宿。宿と言えば聞こえはいいが、実際には山小屋。戊辰戦争の際には、三斗小屋の戦いに巻き込まれている。三斗小屋温泉には何度か行っており、大峠の塹壕の写真は五月ごろの写真。こちらは12月の頃の写真でもう雪が降っている。非常〜に寒いってか、零下である・・・。

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